という仮説。
現代日本は、変化や成長を拒否している感がある。
現状維持。
このままがいい。
この関係のままずっといたい。
新しいのはいいや。
なるべくこのままで移れるなら新機種でもいいけど。
前のをずっとやってる。
新しいの新しいのを追っかけるのに疲れた。
○○がもう何年前?(たいして変わってないのに)
理想郷(という名の逃避先)でずっと遊んでいたい。
ガツガツして上にいきたいわけではない。
新しく会社を起こして切り込んで行こうともしていない。
発見や成長よりも、無理せずいのちをだいじに。
それはつまり、
もはや現代日本が老人になってしまったからかも知れない。
成熟度でいうと、老成してしまったのか。
そうでもない。
老獪な知恵や賢者の知恵があるかというと、
日本人全員にはないようだ。
単に幼いときの全能感のまま、
時が止まっていてほしい、
「ぼくのなつやすみ」みたいな感じで。
多くの日本人が、
そう思っているのではないだろうか。
その無意識が、
作品づくりに出るような気がする。
だから主人公は冒険しないし、
変化しようとしないし、
なるべくこのままでいいやと思っていて、
ああしたいこうしたいという強烈な動機もない。
(だからこの感覚がメアリースーの温床になる)
たとえあなた自身がそうであったとしても、
たとえ日本全体の無意識がそうであったとしても、
ストーリーはそうではない。
あなた自身と主人公は関係ないのであった。
あなた自身がどうであろうと、
物語の中の主人公というものは、
強烈にハングリーでなければならない。
変化を望み、現状から脱出したくて、
弱点を抱え、それを賭けて、
命や社会生命と引き換えに、
なにかを成し遂げようとしなければならない。
そうでないと、三人称物語は、
面白くないからだ。
少し前にデスゲームものが流行ったが、
それは、こういう変化を望まない世の中だとしても、
デスゲームならば、
「生き残りたい」という強烈な欲望がつくれるからである。
そんなにまでして生き残りたいと思う人は、
リアルにはあんまりいないから、
リアリティのあるシチュエーションでは難しい。
だから「デスゲーム」というひとつ大きなウソをついて、
その枠内だけは、物語世界にする、
という手法であったのだ。
つまり、デスゲームものが流行する背景には、
停滞した社会があるというわけだ。
ものすごい出世欲。
ものすごいやりちん欲。
そんなものはあんまりリアリティがなくなってしまったから、
バブル時代に設定する、
というのがひそかな流行のような気がする。
それは、時代劇と同じ考え方だ。
必死で生きる時代にすれば、
必死で生きなくてよい時代から見ても、
リアリティを失わない、
という構造になっている。
あるいは、
何故か殺人の嫌疑をかけられて追われる羽目になるとか、
何故か痴漢に間違えられるとか、
総称して「冤罪もの」とするか、
そうなると、主人公には「潔白を証明する」という、
強烈な動機ができることになる。
このタイプも比較的作りやすいだろうね。
(ちょっと前に、痴漢に間違われ、
線路にまで逃げて引かれて死んだおっさんがいたよな。
実に物語的だ)
最近だと、
プロ下山家と呼ばれて、
嘘のチャレンジをし続けた男がいた。
「有名になりたい」という強烈な動機は、
あそこまで人を動かす。
死ぬまでね。
正義の為に闘うとか、
欲望を果たす為に何かをするというのは、
今はちょっと古いスタイルのような気がする。
今の時代に通用する、
強烈な動機や変化を見出すことが、
実はあなたが一番最初にやらなければならないこと、
かも知れない。
繰り返すが、
あなた自身が草食だったり、
変化を望まない人間であったとしても、
それとこれとは一切関係がない。
ストーリーの中で、
主人公は絶体絶命のピンチになり、
命と全身を賭けて、
なんとかして前進し、
世の中を変えていくだけの影響力を持ち、
その裏には恐怖や弱さや強烈な動機があり、
周囲を引きずってでも、
目的を果たさなければならない。
その代わり世界がガラリと変わってもやむなしだ。
それほどに前へ進むこと。
責任と動機と自分勝手。
そういうものだ。
なぜなら、
そういうストーリーは、面白いからである。
ここにとどまりたいから、同じことを2時間している映画なんて、
映画でもなんでもない。
現代日本の無意識はこうである。
ストーリーの主人公はこうである。
あなた自身はこうである。
そのみっつを客観的に把握できていれば、
それらを混同せずに、
面白いストーリーを作れるはずだ。
みんな面白いストーリーを欲している。
それは、
動機と変化とリアリティの、
うまい落とし所のことかも知れないよ。
フィクションは、フィクションだ。
リアルではない。
2018年05月31日
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