僕は薙刀式のおかげで、
すっかり「指が喋る速度(分速200カナ以上)」になり、
部分的には音声や脳内発声よりも全然速く入力する力を手に入れた。
で、
薙刀式では脳内発声は聞こえないので、
指が喋るというよりは、思考の転写のようになっている。
ところで、
「指が喋る」ということ自体に、
欠点があるのではないかと気づいた。
それは、「息の切れ目に読点(、)うちがち」問題だ。
僕が音声入力や口述筆記に否定的な理由に、
「発声と書き言葉は異なる」
という考えがある。
発声には息の切れ目がある。
一方、書き言葉はない。
書き言葉における読点(、)は、
意味の切れ目に打つものであり、
ブロックの明示に使用する。
通常は話し言葉でも意味の切れ目まで喋り、
息継ぎと読点を合わせるものだが、
そういかないときだって多い。
だから、
話し言葉は異常に読点が多い。
話しながら考えていることもあるだろう。
だから、ちょっと話しては次のことを考えるときに、
どうしてもちょっと間が空く。
脚本を書くときのエクササイズに、
「喫茶店の会話10分を書き起こしてみる」
というものがある。
いかにリアルな会話は無駄が多く、
整理されていないかを体感するエクササイズだ。
やってみると分かるが、
「えっと」が多くて、読点だらけだ。
音声入力における読点の打ち方は分からないが、
少なくとも口述筆記における間は、
考えが止まったのか、意図的読点の間かは、
なかなか区別がつかないだろう。
あとで一文単位で精査しないと、
正しく読点が使われているかはわからないものだ。
だから僕は、
緊急回避的には音声入力や口述筆記はいいと思うけど、
全文作業には懐疑的である。
文章というのはまとまった思考のことであり、
言葉を休み休み継ぎ接ぎしていくものではない。
で、
僕も、思考の継ぎ足しをするときに、
よく読点を打って考えてしまうことが、
まれによくある。
とくにフリック入力のときに多い。
このブログは、
フリック半分、薙刀式半分くらいの割合で書いていて、
(電車で書くときや寝転がって書くときはフリック)
フリックのときは確実に読点が多くなる。
一応全文見直してはいるけど、
書き散らした所に限って、
言葉の継ぎ足しを読点単位でやっていることが多い。
ほとんど読点削除作業と改行作業が、
フリック入力のリライトだったりする。
さて。
指が喋るだ。
指が喋るならば、
音声入力と同じで、
読点多めになっちゃうんじゃね?
ってこと。
事実、親指シフターの北川悦吏子は、
読点で休んじゃうので、
読点ばっかりになる、と述懐している。
まあそれはあとで整理すりゃいいだけの話で、
整理しない北川悦吏子の問題であって、
親指シフトの問題ではないかもしれない。
しかし少なくとも、
「喋る感覚」である以上、
読点が息継ぎの箇所にはいりがち、
は免れないと僕は考えている。
それは道具としての欠点ではないか、ということ。
僕はqwertyローマ字が530字/10分程度の鈍足であったから、
喋る感覚よりも、
思考を書き付ける感覚に近く、
現実には読点すら打つのが面倒であった。
一文が長かったようにも思う。
薙刀式が指が喋る速度に達した頃や、
アイデアなどを書き付けるときは、
やはり読点が多かった。
今やそれをやや上回ってきたので、
読点で休むというよりは、
ワンブロックや一文打って変換するときに休んでいる。
いずれにせよ、
読点で休むのは、息継ぎのためにではない。
意味のブロックの切れ目を読点で示すべきなのだ。
書き言葉の文章作法に、話し言葉をもってくるべきではない。
しかしよく親指シフト(ニコラ)で、
読点で休めるなあ。
上段小指句読点はめっちゃ打ちにくいと個人的に思うんだが。
QP@なんて滅多に打ちたくねえよ。
薙刀式では、
Qヴ、Pへ、@不使用。
小指使用率は、2ないし3%に制限している。
句読点は、その配列の考え方が出る所だと思う。
僕は句点(。)のほうが読点(、)よりも強い意志であるべきだと思うので、
qwertyローマ字の、
読点中指、句点薬指の配置に賛成できない。
せめて逆だろといつも思う。
だからシフトででも、人差し指(読点左、句点右)にした。
下駄配列(読点DF、句点JK)だけが僕と気が合ったようだ。
(月配列の何かでも似たのがあったような)
息継ぎと意味の区切りは違う。
句読点の打ち方で、文章の上手い下手がおおむね分かるというものだ。
そしてそれが出やすいように、道具はあるべきだと考える。
2018年05月31日
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