「失敗しないための〇〇選び」なんてよくあるよね。
誰でも失敗はいやだ。
しかしそれこそが逆転のチャンスになる。
実生活でもそうだと思うし、
物語においてはましてやだ。
失敗は大逆転の前菜である。
そういうことにしてみる。
なぜなら、物語においては、
失敗はターニングポイントになるからである。
失敗した、エンド、ではない。
失敗した、落ち込んだ、でもどうすれば次に成功に結び付けられるか、
考える、計画する、反省する、別のルートを開拓する、
などの次の行動がやってくる。
それはしかも、
「二度と失敗しないために」
という強い動機を伴うことができる。
つまり失敗は次の力強い行動をうながすガソリンだ。
私たちは物語の中の人物とは関係ないのであった。
自分が失敗を極端に避ける人間であろうが、
みっともないものをなるべく見せない人間だろうが、
物語の中では関係なく、
その人物は盛大に失敗し、
激しく落ち込み、非難され、傷つき、責任を取らされ、
大恥をかき、否定され、弱点を暴かれ、
これ以上ないみっともない醜態をさらすだろう。
しかしそれこそが、
次の行動への原動力になる。
それが物語だ。
それがないと、単なるつらい場面でしかない。
我々は次に主人公が成功するだろうと予測しているからこそ、
「このピンチをどうやって切り抜けるのだろう?」
と期待しながらこのストーリーを見ていられるのだ。
つまり失敗は成功の前菜である。
メインディッシュの引き立て役に過ぎない。
甘い和菓子に塩が入っているようなものだ。
成功しまくるとリアリティのバランスが取れないからとか、
成功にあきてたまには失敗させたいとか、
どうにも成功のイメージがわかないから失敗させるとか、
そういう失敗の描き方はナンセンスだ。
次に成功すると信じるから、
失敗はエンターテイメントになるのだ。
だから失敗の描き方こそ、
実力が出る部分である。
もちろん実体験をそこに重ねると、
より失敗をリアルに、深くえがくことも可能だろう。
でもそれは前菜だ。
前菜が旨くてもメインがまずい料理はたくさんある。
メインよりもデザートのほうが印象に残ったりね。
それは違う。
そのあとの大逆転への伏線に、
その失敗がなるべきなのだ。
(もちろんバレバレの伏線では伏線の資格がない)
失敗はターニングポイントであり、
伏線であり、そして再び立ち上がるためのガソリンである。
そのように、
ストーリー中の失敗を描けているだろうか?
そうならないから、
失敗は、ただいやな場面であり、
できれば避けるもの、
のようになってしまっているのだ。
失敗をうまく描けるやつは、
次の大逆転をうまく描けるやつだ。
それは期待を裏切らずに、
しかも読み切れない、
おもしろいストーリーを描けるやつだろう。
そうなりたまえ。
失敗と大逆転は、ペアであるともいえる。
その落差こそ、その高揚感こそが、
物語の振り巾のおもしろさだ。
逆に、さきに見事な大逆転を作り、
「よし、この前に失敗させるか。
どういう失敗がいいかな」と、
起伏を逆算して作れるようになって、
ようやく本物だ。
2018年06月06日
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