2018年06月06日

盛大に失敗しよう

「失敗しないための〇〇選び」なんてよくあるよね。
誰でも失敗はいやだ。

しかしそれこそが逆転のチャンスになる。
実生活でもそうだと思うし、
物語においてはましてやだ。


失敗は大逆転の前菜である。

そういうことにしてみる。
なぜなら、物語においては、
失敗はターニングポイントになるからである。

失敗した、エンド、ではない。
失敗した、落ち込んだ、でもどうすれば次に成功に結び付けられるか、
考える、計画する、反省する、別のルートを開拓する、
などの次の行動がやってくる。

それはしかも、
「二度と失敗しないために」
という強い動機を伴うことができる。

つまり失敗は次の力強い行動をうながすガソリンだ。


私たちは物語の中の人物とは関係ないのであった。

自分が失敗を極端に避ける人間であろうが、
みっともないものをなるべく見せない人間だろうが、
物語の中では関係なく、
その人物は盛大に失敗し、
激しく落ち込み、非難され、傷つき、責任を取らされ、
大恥をかき、否定され、弱点を暴かれ、
これ以上ないみっともない醜態をさらすだろう。

しかしそれこそが、
次の行動への原動力になる。
それが物語だ。

それがないと、単なるつらい場面でしかない。
我々は次に主人公が成功するだろうと予測しているからこそ、
「このピンチをどうやって切り抜けるのだろう?」
と期待しながらこのストーリーを見ていられるのだ。

つまり失敗は成功の前菜である。
メインディッシュの引き立て役に過ぎない。

甘い和菓子に塩が入っているようなものだ。


成功しまくるとリアリティのバランスが取れないからとか、
成功にあきてたまには失敗させたいとか、
どうにも成功のイメージがわかないから失敗させるとか、
そういう失敗の描き方はナンセンスだ。

次に成功すると信じるから、
失敗はエンターテイメントになるのだ。

だから失敗の描き方こそ、
実力が出る部分である。
もちろん実体験をそこに重ねると、
より失敗をリアルに、深くえがくことも可能だろう。

でもそれは前菜だ。
前菜が旨くてもメインがまずい料理はたくさんある。
メインよりもデザートのほうが印象に残ったりね。

それは違う。
そのあとの大逆転への伏線に、
その失敗がなるべきなのだ。
(もちろんバレバレの伏線では伏線の資格がない)

失敗はターニングポイントであり、
伏線であり、そして再び立ち上がるためのガソリンである。

そのように、
ストーリー中の失敗を描けているだろうか?

そうならないから、
失敗は、ただいやな場面であり、
できれば避けるもの、
のようになってしまっているのだ。

失敗をうまく描けるやつは、
次の大逆転をうまく描けるやつだ。
それは期待を裏切らずに、
しかも読み切れない、
おもしろいストーリーを描けるやつだろう。

そうなりたまえ。

失敗と大逆転は、ペアであるともいえる。
その落差こそ、その高揚感こそが、
物語の振り巾のおもしろさだ。


逆に、さきに見事な大逆転を作り、
「よし、この前に失敗させるか。
どういう失敗がいいかな」と、
起伏を逆算して作れるようになって、
ようやく本物だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:16| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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