登山家(ネットでは下山家と揶揄されていたようだが)
の栗城氏の死について書こうと思う。
我々フィクションのストーリーを書く者として、
現代をどうとらえるべきかという話になる。
栗城氏を殺したのは観客と興行師だろうと僕は思う。
栗城氏はプロレスラーだ。
台本の通りに演じる演者だ(多少はアドリブをかますだろうが)。
台本を書くシナリオライターが別にいたと思われる。
シナリオのことを延々書いているここで、
語らないわけにはいかない。
大塚家具の騒動も、
非常にシナリオ的だと僕は書いた。
父子の憎しみあい、わかりやすい主張の対立構造、
創業者の古い頑固なやり方vs新しい現代に即した方法。
そして聡明な美人社長と、頑固な創業者の面構え。
梶原一騎かと思ったよ。昭和のドラマだ。
事実はよくわからない。
しかしマスコミの取り上げ方は、
非常にカリカチュアされた、
ステレオタイプな取り上げ方だった。
単なる一企業の社長選任が、
劇場空間になったようだった。
マスコミは、事実を盛る。
盛ることで、伝わるように強くなり、
コントラストがつき、キャラが立ち、
わかりやすくなる。
それは、フィクションの台本のテクニックと同じである。
ニュースは見られなければ意味がない。
視聴率至上主義ではそれが正義になってしまった。
いつのころからか、
「地味で真実を伝える誠実なニュース」よりも、
「わかりやすくカリカチュアしやすいニュース」
のほうが巾をきかせてきたように思う。
報道の役目とは、
カリカチュアして目立つことよりも、
「地味で目立たないことを、
わかりやすく伝えることで、
専門家しかわからないことの価値を、
上手に伝える」ということではないかと思う。
(たとえば僕の専門領域の、
量子コンピューター開発のニュースは、
いろいろ間違っていて非常に憤慨したものだ)
それが、大衆と専門家の「間にいる者の仕事」
であるべきだと僕は考えている。
しかし、それには地味な下調べや、
知性や、文章能力が必要だ。
ペンが剣より強いようになるには、
知性や分析力やユーモアや比較能力や、
自分たちを冷静に見る力や、
上手にたとえ話をする力や、
構造をうまくとらえて、
複雑な状況を整理する能力が必要だと思う。
剣でぶった切ることは簡単で、
それと同等の能力には、
それと同等の威力の知性が必要だと思う。
マスコミにはその役目があるはずで、
ジャーナリストはバカじゃなれない。
しかしいつのころからか、
ニュースがワイドショーのようになってきた。
知性で整理することよりも、
面白いプロレスをつくるようになってきたように思う。
大塚家具がプロレスだったのか、
それともマスコミがそのように捏造して取り上げたのかは、
よくわからない。
その視聴率爆上げのかわりに、
裏で大塚家具サイドが宣伝だと取引していたかもしれない。
(なにか重大な政治的ニュースを取り上げないために、
このような戯画化されたスキャンダルを流すことは、
よくあることだそうだ。
たとえばパナマ文書の報道隠しに、
舛添都知事の更迭問題が使われたらしい。
あくまでネットのうわさだが)
なんのためにカリカチュアするのか、
というその動機はよくわからない。
しかしその需要は、確実にマスコミにある。
最近だと山口メンバーの事件にその匂いを感じた。
で、栗城氏である。
明らかなキャラ立てだ。
エベレスト生中継というわかりやすさ。
指9本を失ったというキャラ立て。
しかもエベレストからフェイスブックやツイッターを更新するために指ぬきグローブを使って、
凍傷になったという今っぽさ。
本人のキャラもインフルエンサーキャラ。
インスタ映えという「今の風」に、もっとも乗りやすいキャラだと感じた。
これを裏で書いたシナリオライターがいるとしたら、
なかなかの手練れであるとは思う。
栗城氏の「挑戦」については、
いろいろと専門家から疑問が呈されている。
不可能なことをやろうとしていて、
しかも業績の一部にウソがあるということ。
公開された映像が意図的に編集されている、
というものも見た。
今回も「挑戦」というプロレスだったのだと思う。
矢追純一は本気でUFОがいると思っていなかったらしい。
一連の番組はプロレスだった。
だから今回も「必死でやったが、失敗した」
というシナリオが用意されていたはずだ。
しかし事故が起こってしまったのだろう。
そういえば、
野生熊の写真家、星野道夫氏が死んだときも、
熊の生態を知っている者ではとてもやらないことをやって、
熊に襲われて死んだらしい。
それはテレビ映えがするようなことをやらされて、
その結果事故が起こったからだ、
というようなことがネットで言われている。
真相は闇の中だ。
今回も同じ匂いがする。
栗城氏のキャラが立ちすぎているからだ。
漫画から出てきたようなキャラ設定だった。
だからずいぶん気になった。
知らない人でも気にさせることがその目的であるとしたら、
その設定は成功しているといえるだろう。
少なくとも僕は注目した。
フィクションのシナリオでは、
中身とガワということをよく僕は論じている。
中身とは実質の価値やテーマのことで、
ガワとは見栄えや外見上のキャラのことである。
栗城氏は、ガワにまみれて、
中身がまったくなかった。
いや、フィクションなら、
どこかに着地できる。
しかしこれは現実である。
中身とは単独無酸素登頂で、まだ世界で誰もなしえた者がいない、
不可能に近いことであった(そうだ)。
その中身が空虚な、
ガワだけのショーマンが、
中身を得ることなく敗退する、
これは実質下山ショーであったはずだ。
もしシナリオライターがいるとしたら、
彼は手練れではあるが、無能である。
中身のないシナリオで、
ガワだけが立派な、
張り子の虎のようなシナリオだからだ。
注目はされる。
ガワが面白いから。
で、中身は?
なんの意味もない、ただの無謀。
オオカミ少年かよ。
栗城氏がどう思っていたのかは、
よくわからない。
シナリオライターがいるかどうかもわからない。
しかし期待する観客と、
その中継をビジネスにした興行師はいた。
劇場はそこにあった。
演目が貧弱であっただけだ。
意味のない、ガワだけの演目をやって、
中身がないのがばれただけだ。
いい加減、
ガワだけの演目をやって中身のない、
邦画業界にも同じ匂いを感じる。
興行ってのは、これでいいんだっけ。
僕は違うと思う。
それは興行の一部であって、全部ではない。
ほんとうに価値あるものを、
誰にでもわかるようにして、
世の中をよくしていくことが、
興行のほんとうにやるべきことだ。
啓蒙という娯楽興行である。
しかしそういうものはなかなかないから、
プログラムピクチャーというシノギで稼ぐしかないのであろう。
栗城氏の下山プロレスは、その一シノギであったのかもしれない。
三流シナリオライターを使って、穴埋めをしていたのかもしれない。
ある程度は稼げた。それは事実だ。
すくなくとも今回、
興行師は、興行を誤った。
残念な事件だ。
フィクションのシナリオは、
中身とガワがある。
ガワが派手なことは、意外とだれでも思いつく。
それはファッションだったり、外見だったり、
キャラであったり、シチュエーションだったり、
点でとらえられるものだからだ。
中身とは、
それが全部終わった後の線で、
どういう意味があったのかを、
総括することである。
それには知性がいるし、
文章力がいる。
そういうシナリオを描ける人が、
そこにはいなかっただけだろう。
山の専門家たちは、
栗城氏に警告しなかったという。
ちょっとさぼっていないかね。
素人にはわかりにくいことを、
誤解されてでも必死で伝えることは、
専門家の仕事のひとつだと思うよ。
僕はときどき炎上しながらも、
脚本とはなにかをここで書いている。
怠慢じゃない?
栗城氏の挑戦というシナリオは、
ガワだけはキャラの立ちまくった、
キラーコンテンツになる予定のものだった。
中身が伴う予定のない、
空虚なものだった。
それはできの悪いシナリオだったということだ。
スターというイコンをつくるのが早いのは、
手法としてはよくわかる。
素人は中身より人を見るからだ。
しかしその中身が、
栗城氏でなかったとしても、
価値のあったものをつくるのが、
ほんとうのシナリオライターの仕事だ。
彼のキャラによっかかりすぎた、
ずさんなシナリオであった。
企画書だけは立派で中身のない、
昨今の映画の企画書のような感じだった。
問題は、シノギというプログラムピクチャーをつくっているうちに、
ほんものの作り方を忘れてしまったことにあると、
僕は考えている。
事故はしょうがない。
栗城氏を悼む。
2018年06月06日
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