2018年06月06日

劇場型嘘つき

登山家(ネットでは下山家と揶揄されていたようだが)
の栗城氏の死について書こうと思う。

我々フィクションのストーリーを書く者として、
現代をどうとらえるべきかという話になる。

栗城氏を殺したのは観客と興行師だろうと僕は思う。
栗城氏はプロレスラーだ。
台本の通りに演じる演者だ(多少はアドリブをかますだろうが)。
台本を書くシナリオライターが別にいたと思われる。
シナリオのことを延々書いているここで、
語らないわけにはいかない。


大塚家具の騒動も、
非常にシナリオ的だと僕は書いた。
父子の憎しみあい、わかりやすい主張の対立構造、
創業者の古い頑固なやり方vs新しい現代に即した方法。
そして聡明な美人社長と、頑固な創業者の面構え。

梶原一騎かと思ったよ。昭和のドラマだ。

事実はよくわからない。
しかしマスコミの取り上げ方は、
非常にカリカチュアされた、
ステレオタイプな取り上げ方だった。

単なる一企業の社長選任が、
劇場空間になったようだった。


マスコミは、事実を盛る。
盛ることで、伝わるように強くなり、
コントラストがつき、キャラが立ち、
わかりやすくなる。

それは、フィクションの台本のテクニックと同じである。

ニュースは見られなければ意味がない。
視聴率至上主義ではそれが正義になってしまった。
いつのころからか、
「地味で真実を伝える誠実なニュース」よりも、
「わかりやすくカリカチュアしやすいニュース」
のほうが巾をきかせてきたように思う。

報道の役目とは、
カリカチュアして目立つことよりも、
「地味で目立たないことを、
わかりやすく伝えることで、
専門家しかわからないことの価値を、
上手に伝える」ということではないかと思う。
(たとえば僕の専門領域の、
量子コンピューター開発のニュースは、
いろいろ間違っていて非常に憤慨したものだ)

それが、大衆と専門家の「間にいる者の仕事」
であるべきだと僕は考えている。

しかし、それには地味な下調べや、
知性や、文章能力が必要だ。

ペンが剣より強いようになるには、
知性や分析力やユーモアや比較能力や、
自分たちを冷静に見る力や、
上手にたとえ話をする力や、
構造をうまくとらえて、
複雑な状況を整理する能力が必要だと思う。
剣でぶった切ることは簡単で、
それと同等の能力には、
それと同等の威力の知性が必要だと思う。

マスコミにはその役目があるはずで、
ジャーナリストはバカじゃなれない。


しかしいつのころからか、
ニュースがワイドショーのようになってきた。
知性で整理することよりも、
面白いプロレスをつくるようになってきたように思う。

大塚家具がプロレスだったのか、
それともマスコミがそのように捏造して取り上げたのかは、
よくわからない。
その視聴率爆上げのかわりに、
裏で大塚家具サイドが宣伝だと取引していたかもしれない。

(なにか重大な政治的ニュースを取り上げないために、
このような戯画化されたスキャンダルを流すことは、
よくあることだそうだ。
たとえばパナマ文書の報道隠しに、
舛添都知事の更迭問題が使われたらしい。
あくまでネットのうわさだが)

なんのためにカリカチュアするのか、
というその動機はよくわからない。
しかしその需要は、確実にマスコミにある。
最近だと山口メンバーの事件にその匂いを感じた。



で、栗城氏である。

明らかなキャラ立てだ。
エベレスト生中継というわかりやすさ。
指9本を失ったというキャラ立て。
しかもエベレストからフェイスブックやツイッターを更新するために指ぬきグローブを使って、
凍傷になったという今っぽさ。
本人のキャラもインフルエンサーキャラ。
インスタ映えという「今の風」に、もっとも乗りやすいキャラだと感じた。

これを裏で書いたシナリオライターがいるとしたら、
なかなかの手練れであるとは思う。

栗城氏の「挑戦」については、
いろいろと専門家から疑問が呈されている。
不可能なことをやろうとしていて、
しかも業績の一部にウソがあるということ。
公開された映像が意図的に編集されている、
というものも見た。

今回も「挑戦」というプロレスだったのだと思う。
矢追純一は本気でUFОがいると思っていなかったらしい。
一連の番組はプロレスだった。
だから今回も「必死でやったが、失敗した」
というシナリオが用意されていたはずだ。
しかし事故が起こってしまったのだろう。

そういえば、
野生熊の写真家、星野道夫氏が死んだときも、
熊の生態を知っている者ではとてもやらないことをやって、
熊に襲われて死んだらしい。
それはテレビ映えがするようなことをやらされて、
その結果事故が起こったからだ、
というようなことがネットで言われている。
真相は闇の中だ。

今回も同じ匂いがする。

栗城氏のキャラが立ちすぎているからだ。
漫画から出てきたようなキャラ設定だった。
だからずいぶん気になった。
知らない人でも気にさせることがその目的であるとしたら、
その設定は成功しているといえるだろう。
少なくとも僕は注目した。


フィクションのシナリオでは、
中身とガワということをよく僕は論じている。
中身とは実質の価値やテーマのことで、
ガワとは見栄えや外見上のキャラのことである。

栗城氏は、ガワにまみれて、
中身がまったくなかった。

いや、フィクションなら、
どこかに着地できる。
しかしこれは現実である。
中身とは単独無酸素登頂で、まだ世界で誰もなしえた者がいない、
不可能に近いことであった(そうだ)。
その中身が空虚な、
ガワだけのショーマンが、
中身を得ることなく敗退する、
これは実質下山ショーであったはずだ。

もしシナリオライターがいるとしたら、
彼は手練れではあるが、無能である。

中身のないシナリオで、
ガワだけが立派な、
張り子の虎のようなシナリオだからだ。

注目はされる。
ガワが面白いから。
で、中身は?
なんの意味もない、ただの無謀。

オオカミ少年かよ。


栗城氏がどう思っていたのかは、
よくわからない。
シナリオライターがいるかどうかもわからない。
しかし期待する観客と、
その中継をビジネスにした興行師はいた。
劇場はそこにあった。
演目が貧弱であっただけだ。

意味のない、ガワだけの演目をやって、
中身がないのがばれただけだ。

いい加減、
ガワだけの演目をやって中身のない、
邦画業界にも同じ匂いを感じる。

興行ってのは、これでいいんだっけ。

僕は違うと思う。
それは興行の一部であって、全部ではない。
ほんとうに価値あるものを、
誰にでもわかるようにして、
世の中をよくしていくことが、
興行のほんとうにやるべきことだ。
啓蒙という娯楽興行である。

しかしそういうものはなかなかないから、
プログラムピクチャーというシノギで稼ぐしかないのであろう。
栗城氏の下山プロレスは、その一シノギであったのかもしれない。
三流シナリオライターを使って、穴埋めをしていたのかもしれない。
ある程度は稼げた。それは事実だ。

すくなくとも今回、
興行師は、興行を誤った。
残念な事件だ。


フィクションのシナリオは、
中身とガワがある。

ガワが派手なことは、意外とだれでも思いつく。
それはファッションだったり、外見だったり、
キャラであったり、シチュエーションだったり、
点でとらえられるものだからだ。
中身とは、
それが全部終わった後の線で、
どういう意味があったのかを、
総括することである。

それには知性がいるし、
文章力がいる。

そういうシナリオを描ける人が、
そこにはいなかっただけだろう。


山の専門家たちは、
栗城氏に警告しなかったという。
ちょっとさぼっていないかね。
素人にはわかりにくいことを、
誤解されてでも必死で伝えることは、
専門家の仕事のひとつだと思うよ。

僕はときどき炎上しながらも、
脚本とはなにかをここで書いている。
怠慢じゃない?



栗城氏の挑戦というシナリオは、
ガワだけはキャラの立ちまくった、
キラーコンテンツになる予定のものだった。
中身が伴う予定のない、
空虚なものだった。
それはできの悪いシナリオだったということだ。

スターというイコンをつくるのが早いのは、
手法としてはよくわかる。
素人は中身より人を見るからだ。

しかしその中身が、
栗城氏でなかったとしても、
価値のあったものをつくるのが、
ほんとうのシナリオライターの仕事だ。

彼のキャラによっかかりすぎた、
ずさんなシナリオであった。

企画書だけは立派で中身のない、
昨今の映画の企画書のような感じだった。

問題は、シノギというプログラムピクチャーをつくっているうちに、
ほんものの作り方を忘れてしまったことにあると、
僕は考えている。



事故はしょうがない。
栗城氏を悼む。
posted by おおおかとしひこ at 21:48| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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