メアリースーの話。
ストーリーというのは、
それがハッピーエンドであるならば、
「つらいことになっている主人公が、
どうにかして成功をつかむ」
という大枠の構造をしている。
つらい→成功
という大まかな流れこそがストーリーだ。
で、ついつい、
「つらい」部分をたくさん描きがち、
という傾向がある。
それは、おそらくメアリースーに取り憑かれている。
なぜなら、メアリースーの原因は、
「私をわかってほしい」という承認欲求だからだ。
ストーリーというのは、
つらい→成功の、
「→」の部分が本体である。
ボリュームでいうと9割以上だ。
そのつらい状況をセットアップしたら、
どうにかして、泥まみれになりながら、
工夫したり失敗したりして、
成功をつかむまでのロードそのものが、
ストーリーの本体である。
しかし、メアリースーなる承認欲求に取り憑かれた人は、
「つらい」だけを9割書いてしまう。
辛い私を理解してほしいという気持ちが勝ってしまうからだ。
主人公の「成功するまでの道のり」が本体なのに、
その前提部分にすぎないつらい状況を延々と描いてしまう。
で、そんなもんだから、解決するのも一瞬で解決してしまう。
自分で解決するのではなく、
他人に解決してもらうことで。
これがご都合の正体だ。
だからそういうのを見ると、
「この人は文句ばかり言って、最後はご都合主義で助かって喜んでいる。
へんだ」
というもやもやだけが残る。
以前取り上げた、炎上した牛乳石鹸のウェブCMがこのような構造の典型だ。
しかし、「→」の部分がストーリー本体だと認識していない作者にとっては、
何が非難されているのか、
理解できないに違いない。
「→」を本体だと思っている観客と、
「つらい」を本体だと思っている作者に、
乖離があるからである。
で、当然ながらそういう作者は、
他人のつらい話が好きなのではない。
「自分がつらいことだけがやりたい」
という、自他の区別がついていない状態に陥っている。
いや、自分しか見えてない、という状態というべきか。
だから、自分と他人で、ダブルスタンダードな状況になりがちである。
自分はいいが、他人は駄目、と。
当たり前だが、
「→」の部分を書くのは難しい。
適度に解決できる、ちょうどいい問題を設定することや、
それが何段階にもわたる、ある程度描くのに時間がかかり、かつ楽しめるものであることや、
アップダウンや緩急がある、広がりのある過程であることが必要で、
しかも目新しい変わったことが題材で、
誰にも見向きもされないような変わりすぎたものではよくなく、
その過程が最後に一本にまとまるようにドミノ倒しになる必要があり、
しかも解決そのものが社会的な意義があるほうがよい、
という条件が課せられるからである。
みなその部分をうまく作ることに腐心している。
なのにメアリースー患者は、
その「→」部分を無視して、
「私をわかって」とずっとつらい場面を書きたがる。
だから、すれ違うのである。
もしあなたが、主人公のつらい場面を書いていることが楽しく、
あるいは何かの欲が満たされているのであれば危険である。
書くことで心の傷を昇華しているに過ぎないのかもしれず、
他人を楽しませる物語を書いていないかもしれない。
(僕はいまだに、
「シャイニング」の衝撃的な場面、
主人公の書いていた原稿の内容を思い出す。
作者が書いていることはあのようなものかもしれないと、
いつも自分に警鐘を鳴らす)
あなたは、「→」の部分を書きたいのか?
それとも「つらい」の部分を書きたいのか?
どちらがモチベーションで、
どちらを書いてて気持ちよくなってくるのか?
「つらい」部分なんて1割もないよ。数%くらいか。
残り9割の「→」を書くことを考えないと。
だからあなたのストーリーは、最後まで書けないのかも知れないよ。
1割未満で尽きているのだからね。
これに関連して、
「なぜあなたは最後まで書けないか」
ということに、別のアプローチから見てみることにしたい。
メアリースーに取り憑かれていると、
最後まで書けないか、ご都合でデウスエクスマキナだ。
そうじゃない原因に、
「出オチ病」というものもあると思う。
次回書きます。
2018年06月12日
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