2018年06月14日

出オチ病

なぜ意気揚々と書きだした話は、
途中でにっちもさっちも書けなくなり、
そのうち凍結してしまうのか。

それは、出オチをストーリーだと勘違いしているからではないか。


出オチとは、
それが出た瞬間が一番面白くて、
それ以降まったく面白くなくて、
「やっぱり出た瞬間がピークだったな」
というようなもののことである。

別に落ちになっている必要はなく、
ピークがそこならなんでも出オチだろう。


その原因は様々で、
最初に考えた刺激以上のものを用意できないことや、
刺激を小出しにしていくコントロールができないことや、
出たらもう満足してしまう現象や、
情熱がほかのものに行ってしまったりすることなどがあると思う。
でもほんとうのところは、
「その先をあまり考えていない」ことだったりするかもしれない。
自分の中のキャパが小さすぎて、出る部分を考えたら、
それ以上頭の中でキープできないのかもしれない。


なぜストーリーが最後まで書けないのか、
という問いに答えるのに、
メアリースー病にかかっているからではないか、
というのが前記事の内容だとすると、
今回は出オチ病にかかっているんじゃないか、
というケースにまとめてみたい。


私達はストーリーを書くときに、
どこから作るのだろう。
たいていはストーリーそのものから作らない。
もっと小さなアイデアから出発するものだ。

で、
「思いついた!」と勘違いするものって、
ほとんどが出オチに関するものと思うんだよね。

たとえば。

キャラ設定。
世界観(場所、アイテム、ルール)設定。
人間関係設定。
バックストーリー設定。

これらはすべて出オチだ。
なぜなら、
「それを全部説明し終えたら、終わりだから」だ。


ストーリーは説明ではない。
事件が起こり、それを解決するまでの行動の記録がストーリーである。

もちろん、
その具体的な登場人物が何者で、
どういう世界の出来事で、
どういうバックストリーがあるか、
は、ストーリーそのものと密接な関係がある。

だから、それをつくることがストーリーを作ることだと勘違いしてしまう。

正確にいうと、
それがどういう人物であったとしても、
どんな世界であったとしても、
面白いことになっていくのが、
ストーリーというものである。

だからどんな魅力的なキャラをつくっても、
どんな魅力的な世界観を構築しても、
まだストーリーは0しかできてない、と思ったほうがよい。


ストーリーができていないのに、
キャラクターやその裏設定や、
世界観の設定をどんどんつくることはできる。

たとえば架空の地図を作って楽しんだ記憶はだれにでもあるだろう。
それは一種の箱庭で、
世界の創造というのはそれだけで快感を伴う現象だ。

が、それはストーリーではない。
説明をしたら、その説明おわりで出番がなくなる。

それ以降、あってもなくても大して変わらない。
で、あとから見たらあれは出オチだったね、となる。
それ以上に何かになることが、一回もなかったからだ。

何度か書いているが、
設定というのは点だ。時間軸を持たないのだ。
(過去のバックストーリーは一見線を持っているように思えるが、
そこから広がらない以上、点と変わりない)
そして、点である設定が、
「次にどうなるか」がストーリーだ。


たとえば、
「グラップラー刃牙」最大トーナメント編の、
入場シーンを考えよう。
よくネットでもパロディになる部分だ。
これは登場人物紹介の見本のようなシーンだともいえる。

〇〇はこういう過去があり、こういうキャラで、
……などと、うまい具合に紹介をする。

で、出オチとは、
この紹介だけで終わり、
試合を書かないようなものなのだ。


試合部分がストーリーであり、
入場シーンは前菜にすぎない。


かつて総合格闘技「PRIDE」では、
試合前の紹介ビデオ(通称「煽りV」)がとても出来が良く、
試合そのものより面白かったこともたくさんある。
つまりそれは出オチということである。

出た瞬間、入場シーンがおもしろくて、
試合そのものがおもしろくないのは、
出オチなのだ。

あなたは試合を書かなくてはならない。
煽りビデオをつくるのが仕事ではないのである。


設定を面白くすることは、たぶんいくらでもできる。
煽りVをどれだけでも盛っていけばいいからである。

実際それをやりすぎないのは、
前振りよりも試合がつまらなかったときに、
煽りすぎと批判されかねないからである。
羊頭狗肉になってしまうからだ。


入場シーンだけの、甲子園やオリンピック。

それだけ書いて満足してしまっているから、
その後が書けない可能性はないか?

試合を書こう。
それが本編だ。


で、出来るなら、
面白い本編を先につくり、
それがより面白くなるように、
設定を後付けで盛っていくようにするとよい。
やりすぎないギリギリを狙っていけるし、
逆に本編をもっと面白くする設定をそこで思いつき、
リライトで化けることもたくさんある。

第一稿が傑作ではないことなんて山ほどある。
傑作はN稿目にできる。
第一稿を書き上げるのが先で、
入場シーンだけ書いてる場合ではない。
posted by おおおかとしひこ at 00:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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