主人公がちゃんと行動しているのは当然としよう。
受け身であってはストーリーとしては成立しない。
それは、他の人物にもいえることだ。
行動してなくて、ただその場にいるだけのやつを、
チェックするのだ。
黙っているなら、喋らせてみよう。
「お前はどう思う?」と振れば良いだけだ。
あるいは黙ったまま、勝手に行動させても良い。
あいつは何考えてんだ、というリアクションや、
あいつそんなことを考えてたのか、
というリアクションができる。
黙っている、固まったまま、
というのは、要するに「その場にいない」ことと同様だ。
逆に、ストーリーにおける「その場にいる」ということは、
何かを言ったり、行動する、
ということなのである。
主人公でないならば、多少消極的だろうがメアリースーだろうが
構わないと僕は考える。
迎えに行くご都合も、
主人公でなければ成立するかもしれない。
(多少は気になるから、直せるならそれに越した事はない)
つまり、
登場人物とは「主体」のことだ。
ストーリーとは、「主体」と「主体」のぶつかり合いのことを言う。
主体は意思を持ち、目的を持ち、行動でそれを実現しようとし、
主張を持ち、考え方を持ち、
柔軟に状況に対応して変化して行く。
それは主人公だけでなく、
他のキャラクターもそうでなければならない、
ということだ。
何故ならストーリーとは、
その主体同士のぶつかり合い(=コンフリクト)
のことだからである。
主人公が主体になっていない(メアリースー)は論外。
主体が主人公一人しかいないのも論外。(独白の一人相撲)
主体が二人しかいないのも視野が狭い。(セカイ系)
主体は、三人以上が望ましい。
そして、主体でない登場人物は、主体としよう。←いまここ。
主体のない登場人物は、石ころと同じだ。
それは人間ではない。
リアルの世界ではどうだろう?
主体性のない人間は、やはり状況の奴隷だろう。
近代的自我とは、主体性を神より取り返す過程であったのかもしれない。
そしてその自我は、人工知能なる新しい主体?に、
脅かされている。
ネアンデルタール人は、ホモサピエンスに滅ぼされたらしいが、
それが繰り返されるのかねえ。
と話が逸れる前に。
つまりは物語とは、人の主体性に関わって存在する、
ということなのだ。
主体性がなく、ただ流され、自分の意思を持たず、
行動せず、ラッキーだけ待つ奴、
つまりはネットの住民は、
物語の基盤であるところの、
近代的主体的自我を持っていない、
とも言えるかもしれない。
つまり、近代的自我が発生する以前の、
魔女狩りをする群衆に、
戻ってしまったのかもしれない。
今やリアルに魔女狩りをする群衆はいないが、
ネットの世界では近代的自我確立の、
以前の時代なのかも知れないね。
話が逸れているようで、
本質的な話をしている。
つまり、
物語とは、
近代的自我と、近代的自我と、近代的自我と、
…(最低三つ以上)…
の、ぶつかり合い(コンフリクト)を、
はじめから終わりまで描くことである、
と言えるだろう。
だから、主体性のない石ころはいらないのだ。
黙ったまま突っ立ってる奴は誰か?
彼または彼女に近代的自我を与えよ。
よくあるのは、
新キャラがわさっと出てきたときに、
旧キャラが傍観者になりがちだという現象だ。
作者の興味や集中力がそっちに移ってしまい、
旧キャラの自我が消失してしまうことは、
とてもよくあることだ。
作者の自我の分裂の最大数が決まっている、
という仮定をすればこれは説明できる。
4、5人のキャラを書き分けるので大抵限界がきてしまうものだからね。
ということで、
キャラクターを増やしすぎない、
というのは経験的な自衛法だ。
その自我同士で、濃く、ねっとりとやらないといけない。
それが苦しくて新キャラを出して風通しを良くしたくなる心理は、
よく分かる。
しかし観客はそれよりも、
さらに奥深い近代的自我同士の何かを望んでいる、
ということを思い出すべきだ。
なぜなら、はじめからずっと見てきているからだ。
途中で自我をなくしてしまって、
黙って立ったままの石ころに、
主体的自我を復活させよう。
生き生きと自分の意思を持たせて、
その人都合の何かを行動させよう。
コンフリクトは深まり、物語の火花は増すだろう。
2018年06月19日
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