2018年06月19日

行動してないやつはいるかい?

主人公がちゃんと行動しているのは当然としよう。
受け身であってはストーリーとしては成立しない。

それは、他の人物にもいえることだ。

行動してなくて、ただその場にいるだけのやつを、
チェックするのだ。


黙っているなら、喋らせてみよう。
「お前はどう思う?」と振れば良いだけだ。

あるいは黙ったまま、勝手に行動させても良い。

あいつは何考えてんだ、というリアクションや、
あいつそんなことを考えてたのか、
というリアクションができる。


黙っている、固まったまま、
というのは、要するに「その場にいない」ことと同様だ。
逆に、ストーリーにおける「その場にいる」ということは、
何かを言ったり、行動する、
ということなのである。

主人公でないならば、多少消極的だろうがメアリースーだろうが
構わないと僕は考える。
迎えに行くご都合も、
主人公でなければ成立するかもしれない。
(多少は気になるから、直せるならそれに越した事はない)

つまり、
登場人物とは「主体」のことだ。

ストーリーとは、「主体」と「主体」のぶつかり合いのことを言う。
主体は意思を持ち、目的を持ち、行動でそれを実現しようとし、
主張を持ち、考え方を持ち、
柔軟に状況に対応して変化して行く。

それは主人公だけでなく、
他のキャラクターもそうでなければならない、
ということだ。

何故ならストーリーとは、
その主体同士のぶつかり合い(=コンフリクト)
のことだからである。

主人公が主体になっていない(メアリースー)は論外。
主体が主人公一人しかいないのも論外。(独白の一人相撲)
主体が二人しかいないのも視野が狭い。(セカイ系)
主体は、三人以上が望ましい。
そして、主体でない登場人物は、主体としよう。←いまここ。

主体のない登場人物は、石ころと同じだ。
それは人間ではない。


リアルの世界ではどうだろう?
主体性のない人間は、やはり状況の奴隷だろう。
近代的自我とは、主体性を神より取り返す過程であったのかもしれない。
そしてその自我は、人工知能なる新しい主体?に、
脅かされている。
ネアンデルタール人は、ホモサピエンスに滅ぼされたらしいが、
それが繰り返されるのかねえ。
と話が逸れる前に。

つまりは物語とは、人の主体性に関わって存在する、
ということなのだ。


主体性がなく、ただ流され、自分の意思を持たず、
行動せず、ラッキーだけ待つ奴、
つまりはネットの住民は、
物語の基盤であるところの、
近代的主体的自我を持っていない、
とも言えるかもしれない。
つまり、近代的自我が発生する以前の、
魔女狩りをする群衆に、
戻ってしまったのかもしれない。
今やリアルに魔女狩りをする群衆はいないが、
ネットの世界では近代的自我確立の、
以前の時代なのかも知れないね。


話が逸れているようで、
本質的な話をしている。


つまり、
物語とは、
近代的自我と、近代的自我と、近代的自我と、
…(最低三つ以上)…
の、ぶつかり合い(コンフリクト)を、
はじめから終わりまで描くことである、
と言えるだろう。


だから、主体性のない石ころはいらないのだ。


黙ったまま突っ立ってる奴は誰か?
彼または彼女に近代的自我を与えよ。



よくあるのは、
新キャラがわさっと出てきたときに、
旧キャラが傍観者になりがちだという現象だ。
作者の興味や集中力がそっちに移ってしまい、
旧キャラの自我が消失してしまうことは、
とてもよくあることだ。

作者の自我の分裂の最大数が決まっている、
という仮定をすればこれは説明できる。
4、5人のキャラを書き分けるので大抵限界がきてしまうものだからね。

ということで、
キャラクターを増やしすぎない、
というのは経験的な自衛法だ。

その自我同士で、濃く、ねっとりとやらないといけない。

それが苦しくて新キャラを出して風通しを良くしたくなる心理は、
よく分かる。

しかし観客はそれよりも、
さらに奥深い近代的自我同士の何かを望んでいる、
ということを思い出すべきだ。

なぜなら、はじめからずっと見てきているからだ。



途中で自我をなくしてしまって、
黙って立ったままの石ころに、
主体的自我を復活させよう。
生き生きと自分の意思を持たせて、
その人都合の何かを行動させよう。

コンフリクトは深まり、物語の火花は増すだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:35| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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