2018年06月19日

リライトは、人格を統一するためにある

作品全部を一秒で書ける人はいない。

たいてい三日とか一週間とか、一か月とか半年かかる。
その間あなたの人格は一定している保証がない。

だからリライトするのだ。
人格をひとつのものにするために。


二時間前のあなたのいうことと、
今のあなたが言うことは、微妙に違っていると思う。

気分も違うし、ちょっとした情報が新しく入っているかもしれない。
興味の方向も違うし、興奮度や疲労度や集中力も違う。
おなかがすいているかもしれないし、
賢者モードになっているかもしれない。

さらに二時間後のあなたが、今のあなたと、
二時間前のあなたと、同じである保証はない。

おおむねは一致するだろうが、
厳密には全く同じことを書くような、
まったくの同一現象はないだろう。

つまり。
あなたの書くことには、ばらつきがある。
(それがマシンと人間をわける、自由意志の正体かもしれないと、
ちょっと僕は思っている)


どれくらいのばらつきかも、
どれくらい書いたらばらつくかも、
個人差や状況によるだろうから法則はないだろう。

だから、
「ページごとに、ちょっとだけ作者の人格が変わってしまう」
ということは、まれによくあることだ。

1日での人格も微妙にぶれがあるし、
数日の作業の人格もぶれがある。
一か月かけて少しずつ書いてきたものが、
少しずつ作者の人格にぶれがあって、
当然である。

当然であるが、それを放置してはいけない。


物語は、いや、文章は、
「同一の人格によるまとまったもの」であることが前提だからである。



途中で作者の人格が入れ替わってはいけない。

もちろん、ジキルとハイドのように入れ替わるような、
分裂症の作者はいないだろうが、
微妙に辻褄が合わなくなっていることは、
よくあることだろう。

さっき言ったこと前提のくせにもう忘れているとか、
その前提ならこの流れはおかしいとか、
同じことを何度も言っているとか、
言っていないことを前提に(言ったつもりになって)行動しているとか、
冷静になっていたはずなのに、
突然テンションが上がっているとか、
今初めて思いついたことなのに、そうなっていないとか、
まれによくあるだろう。

それは、長時間かけて書いたため、
作者の人格が微妙にぶれていたことの影響だ。

それを一定に保つのが、
リライトの本当の目的かも知れないというのが本題。



話しはじめから、途中から、
ターニングポイントから、クライマックスから、
ラストまで、
「一貫した一人の人格による、まとまった解釈と距離感」が維持されないと、
「ひとつの作品」にはならない。

当たり前だが、忘れていることである。

他人の作品なら、
「作者わすれてんじゃね?」とか、
「ここで気分かわったろ」とか読み取れてしまうのに、
自分自身のそれには気づかなかったりするものだ。


まず小ブロック(たとえば1ページや1シーン)内で、
作者の人格が一定になるように、リライトしよう。
それは可能だろう。

リライトでそれを直すのは恥ずかしいことではない。
むしろ、直さずにそのまま世に出してしまうことが恥だ。

その視野で、まずは1ブロック単位で直していく。
それで最後まで行ったら、
それより大きなブロック単位で、
人格を一定にしていくようにする。

作者の人格のぶれを小さくしていく。
節単位、章単位、幕単位で、
ぶれないようにしていく。

それには「そのブロックの」一気読みが確実である。
一気読みして作者の人格のぶれがあるところが違和感があるはずで、
それを直していくことを考えるとよい。
もちろん、ストーリーそのものを直していくことも同時並行でやるけど。

ストーリーに論理的に変なところがなくても、
取り上げ方や見方が全然違っていたりすることを、
直していったほうがよい。

さっき言ってたことと今言っていることの、微妙な齟齬を直していく。

こうしてリライトはだんだん、
一人の人格による、
常に一定の思考による、
まとまった意味のある、
理路整然とした、
十分にコントロールされた、
勢いのあるものになってゆくのだ。


つまり、一気書きしていないもを、
いかにも一気書きしたかのように直していくのが、
リライトの本質なのではないか、
という仮説が成り立つ。


とくに苦しんで書いたところは、
一日に書いた分量が小さく、
作者の人格が一定しない度合いが大きいと思う。

「この部分全体を一人の人格がちゃんと語るとしたら」
という前提でそのブロックを語りなおすのが、
よいリライトを生むと僕は考えている。


ということで、人格が日々微妙に変わっていくことは、かまわない。
作品の最初から最後まで、
一貫して一定していれば、問題ない。
そのように、きれいにリライトしよう。

リライトしまくってわけのわからなくなったものは、
たいてい別々の方向性で、分裂した指向性で、
直そうとしたつぎはぎであることが多い。

そうではなく、常に一貫した語り口の距離をつかんでいったほうが、
よいリライトになるだろう。


最近ようやくその境地のリライトができるようになってきた。
都合やもろもろでリライトが分裂人格になってしまってはいけない、
ということが、ようやく俯瞰できるようになってきたので、
経験則としてここに書いてみた。
posted by おおおかとしひこ at 14:35| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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