2018年06月20日

一ヶ月あけてリライトせよ

なんてことを僕は良く言うけれど、
仕事ではなかなか出来ない。締め切りがあるからね。

今書いてる長編小説は自主的に作ってるものなので、
理想的にこれがちゃんとできた。

一ヶ月空けると何が違うのか?
余裕だ。


書いてから一週間あけたとしても、
余裕は戻ってこない。

どういうことかというと、
「それに全力を尽くした」という息切れの状態だ。


手を抜いて書き上げる人はいないだろう。
大抵は全力を尽くし、
ギリギリまで考え、
少しでも隙間があればなんとかしようとしてきた筈だ。

逆にいうと、それは全力を使ったが故に、
力に余裕がない状態なのだ。


そこで欠点などをセルフ指摘したって、
改稿出来るはずがない。
もういっぱいいっぱいなのである。

全力疾走して、なんなら蓄えた脂肪を全部使って、
体重が減ったあとのマラソンランナーのようなものだ。
余力などひとつもない。

こういう状態でリライトに突入しても、
いいことはひとつもない。
へろへろなリライトにしかならない。


全力で走り込んだマラソンランナーに向けて、
「もう一回最初から走ってみよう。反省点は見えた」
なんて言ったって、
クオリティが上がるはずがない。

どんな新しい思いつきも、
どんなアイデアも、
スカスカの残りカスだ。



「一文字目から書き始めて、
最後の文字を書き終えたら完成」
なんて思っているのは、
まだ一本も完成させたことがない素人だけだ。

それはまだ一周目が終わっただけだ。

リライトというのは、
それを何周も何周も何周もやり直すことである。


初稿と最終稿は、
芝居で言えば、初日と千秋楽くらいの差がある。
初めて書いた文字と、書き慣れた文字くらいの差がある。

初稿を書くのにはがむしゃらさが必要だ。
なりふり構わず、ゴールまで巻き込む強引さも必要だ。
初稿はラッセル車による開拓のようなもので、
だからフルマラソンランナーのように、
体重すら減ってしまう。


何周もするリライトに必要なのは、余裕だ。

この時観客はこうなっているだろうと想像する余裕や、
遊びやサプライズを仕掛けておこうという余裕や、
緩急をコントロールする余裕や、
作品と自分を分離する余裕や、
作品を客観的に捉えて評価する余裕である。


それは、いっぱいいっぱいの直後にはない。


余裕が戻り、
新しいアイデアが過去を凌駕できるくらいに、
走力が戻ってくるには、
完全休養一ヶ月は欲しい。
これは経験的な数字だけど。


ということで新キャラの端役を思いついてしまい、
入れようかどうか悩んでいる。
出番は2シーンなんだけど、
遊びとしてあったほうがいい、と判断する。

ラッセルのときには、そんな余裕もないパート。

そこがリライトの真骨頂。

書き慣れていない文字は、
全画に力が入っていて、所々疑問が出てしまい、
書き慣れている文字は、
入れどころと抜きどころが決まっていて、
すっと、しかもばしっと決まるはず。

そういう風にリライトしよう。
posted by おおおかとしひこ at 14:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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