なんてことを僕は良く言うけれど、
仕事ではなかなか出来ない。締め切りがあるからね。
今書いてる長編小説は自主的に作ってるものなので、
理想的にこれがちゃんとできた。
一ヶ月空けると何が違うのか?
余裕だ。
書いてから一週間あけたとしても、
余裕は戻ってこない。
どういうことかというと、
「それに全力を尽くした」という息切れの状態だ。
手を抜いて書き上げる人はいないだろう。
大抵は全力を尽くし、
ギリギリまで考え、
少しでも隙間があればなんとかしようとしてきた筈だ。
逆にいうと、それは全力を使ったが故に、
力に余裕がない状態なのだ。
そこで欠点などをセルフ指摘したって、
改稿出来るはずがない。
もういっぱいいっぱいなのである。
全力疾走して、なんなら蓄えた脂肪を全部使って、
体重が減ったあとのマラソンランナーのようなものだ。
余力などひとつもない。
こういう状態でリライトに突入しても、
いいことはひとつもない。
へろへろなリライトにしかならない。
全力で走り込んだマラソンランナーに向けて、
「もう一回最初から走ってみよう。反省点は見えた」
なんて言ったって、
クオリティが上がるはずがない。
どんな新しい思いつきも、
どんなアイデアも、
スカスカの残りカスだ。
「一文字目から書き始めて、
最後の文字を書き終えたら完成」
なんて思っているのは、
まだ一本も完成させたことがない素人だけだ。
それはまだ一周目が終わっただけだ。
リライトというのは、
それを何周も何周も何周もやり直すことである。
初稿と最終稿は、
芝居で言えば、初日と千秋楽くらいの差がある。
初めて書いた文字と、書き慣れた文字くらいの差がある。
初稿を書くのにはがむしゃらさが必要だ。
なりふり構わず、ゴールまで巻き込む強引さも必要だ。
初稿はラッセル車による開拓のようなもので、
だからフルマラソンランナーのように、
体重すら減ってしまう。
何周もするリライトに必要なのは、余裕だ。
この時観客はこうなっているだろうと想像する余裕や、
遊びやサプライズを仕掛けておこうという余裕や、
緩急をコントロールする余裕や、
作品と自分を分離する余裕や、
作品を客観的に捉えて評価する余裕である。
それは、いっぱいいっぱいの直後にはない。
余裕が戻り、
新しいアイデアが過去を凌駕できるくらいに、
走力が戻ってくるには、
完全休養一ヶ月は欲しい。
これは経験的な数字だけど。
ということで新キャラの端役を思いついてしまい、
入れようかどうか悩んでいる。
出番は2シーンなんだけど、
遊びとしてあったほうがいい、と判断する。
ラッセルのときには、そんな余裕もないパート。
そこがリライトの真骨頂。
書き慣れていない文字は、
全画に力が入っていて、所々疑問が出てしまい、
書き慣れている文字は、
入れどころと抜きどころが決まっていて、
すっと、しかもばしっと決まるはず。
そういう風にリライトしよう。
2018年06月20日
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