2018年06月22日

「と思った」は使えない

小説と脚本の違い。
脚本は三人称形である。
小説は三人称形の文章に、
別のものを地の文に混ぜても良い。
(原理的には良くないのかもだが、実質OK)

その代表的なものは、
「彼は〇〇と思った。」というものである。


具体例を。

「今夜はカレーにしようと思った。」

これは三人称形ではない。
思う内容は、外に出てこないからである。


舞台演劇を想像しよう。

役者が板の上にいる。
歩きながら考える。
あるいは、椅子に座りふと窓の外を見る。

それでその男が、
「今夜はカレーにしようと思った」と、
我々は理解できるだろうか?

勿論否だ。

しかしこのようなことは、小説では日常茶飯事だ。


映画は小説よりも舞台演劇に近い。

小説では、
「窓の外を見ると、雲が一筋流れていた。
今夜はカレーにしようと思った。」
と書くことが可能だが、
演劇や映画では、
「彼は窓の外を見る。雲が一筋流れている。」
までしか表現できない。

役者がエスパーで、
観客の頭の中に、思っていることを伝えられない限り。



では、「今夜はカレーにしようと思った」は、
演劇や映画ではどのように表現するのか?

たとえば。

スーパーで、
肉やジャガイモやニンジンを買い、
ラッキョウを買うことで、表現するのだ。(間接表現)

とどめにカレー粉を買っても良い。(間接表現の中の決定的要素)


これは、「今夜はカレーにしよう!」
と独り言を言う直接表現に対して、
間接表現である。

間接表現は、それを直接使わないことが肝だ。

だから、「カレー粉を買う」なんてことを入れずに表現する方が、
粋というものである。


間接表現は、時に「分かりにくい」と言われる事がある。
それはある程度の読解力が必要だからで、
それは馬鹿には通じないものだからだ。

どの程度のバカが見るものか、
どの程度の文化レベルの人が見るものかを、
映画は想定しない。
基本的に、バカから天才まで見るものである。

だから、殆どのところは分かりやすく直接表現にしておき、
キモになる部分だけ、
文化度の高い間接表現にするのが良い。

ストレートにいうよりも、
婉曲表現の方が心に刺さる。

バカはストレートしか理解できないので、
この辺の綱引きが重要になってくる。

(そして間接表現ばかりになってしまっている時に、
まさかのどストレートは効果的だ)



さて、
ここまで回りくどいことを考えないと、
映画においては、
「今夜はカレーにしようと思った。」は、
表現できない。

逆に、そこまでコストをかけてまで、
彼の思うことを表現する意味がなくなってくる。


つまり、
映画では余計なことは思わない。


「思う」という表現コストをかけてまですることは、
よっぽど重要なことだけである。

たとえば、
あの子は俺が好きかどうか、
犯人の意図は、
この発言の政治的意図は、
などの、重要場面に限られる。

つまり、数えるほどしか、
「思う」を表現しないのだ。



もう一つ簡単な方法がある。
別の人に言うことだ。

「今夜カレーにしようと思うんだ」

だ。
しかし、だから何?でしかない。

「今夜カレーにしようと思うんだ」
「カレー?昨日食ったよ」

リアクションに反発を入れてみた。
これが自然な映画の中での会話劇である。
ストーリーとはコンフリクトであるからだ。

「今夜カレーにしようと思うんだ」
「はい」

はストーリーではない。

行動は必ず反発や摩擦を生む。
それをいかに回避したりねじ伏せたり乗り越えたり、
第三の道を探るか、それが成功するか失敗するかが、
ストーリーである。

だから、「思う」ことそのものが、
波紋を起こすように会話劇をつくってゆく。


これまた、
「思う」ことに対する表現コストは上がる。
思うことに対して、一々反発と乗り越えを作らなくてはいけない。

「今夜はカレーにしようと思うんだ」
「カレー?昨日食ったよ」
「ヨーグルトを入れると美味いって聞いてね」
「どんな味になるの?」
「それが分からないから作るのさ」
「(冷蔵庫を開けるがない)よし、じゃまずヨーグルトを買いに行こう」

思いは反発を生み、コンフリクトは決着し、
次の行動へ繋がる。
これが映画的ストーリーである。

ここまでやるのが、
「思いを会話に出す」である。

同様に表現コストが高くなるので、
やはりキモになる部分に限定されてくるだろう。



映画の中では、気軽に今夜はカレーだと思えない。



にも関わらず、
小説では沢山思う事ができる。

仮に、
小説から「思う部分」を全削除すると、
どれくらいのものが残るだろう?
小説の大事な部分がだいぶ抜けて、
スカスカの骨だけ残ってしまうのでは?

逆にいうと、
映画は骨だけで勝負する文学だと言えるのだね。


小説から脚本に転身した人がまず困るのは、
「と思う」を使えないことだ。
そして骨格が貧弱なのがばれてしまう。

逆に、脚本から小説に転身すると、
骨格ばかり鍛え上げて、「と思う」を使わないことが、
欠点になる。思う豊かさが全然ない。
隙あらば思えるなあこれ、
と、最近気づいた次第だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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