当然だけど、僕らが書いているのはフィクションだ。
つまり嘘だ。
我々は嘘をついている。
それは本当にあったことではない。
それはみんな分かったうえで、フィクションを楽しむ。
どういう面白い嘘をつくのかなと。
で、それは有限である。つまり終わる。
終わり際が肝心だ。
その嘘はどうやって閉じられるのか。
たとえば、密室殺人事件という嘘をついたとしよう。
事件そのものは嘘であるが、
それは矛盾や無理があってはならない。
その一見不可能がトリックが暴かれ、
成程そうだったのか、と、
作者の用意した完璧なトリックに唸らなくてはならない。
うなるほど大したことないのなら、
それは嘘として上等ではない。
上等な嘘というのは、
終わったあとに、
いやあ完璧な嘘だったなあと思うものでなければならない。
すべてに矛盾がなく、
最初から全て用意されていたかのようになっていて、
それでいて途中で覚めてしまうことがないようなもの。
全貌がラストになって見えたときに、
成程すべてはこうだったのか、
と「納得」しなければならない。
納得のいかないものは、嘘として下手なものである。
あれがああだとすると、これはおかしくね?とか、
それをそうしたほうがよかったんじゃない?とか、
これがあるならそれはなくてもよいだろ、とか、
あれが足りなくね?とか、
そのような過不足や矛盾が見つかると、
一気に覚めてゆく。
「よくできてない嘘」だったからだ。
逆にいうと、
物語を見ている途中は、
「この嘘の、架空の世界の事件は、
どのようにして完結するのか」が興味、焦点であろう。
完結の仕方がぬるい、つまり穴があったときなどは、
これでよかったのか?と、不満が出てくる。
逆に、きっちりした完結とは、
なんの疑問も湧かないようにすべての謎が解かれ、
これ以上聞くことがない、
という状態になることを言う。
そして、
あれのあれはこれの為だったのだな、と、
構造を理解したり、
成程あれのあれがあれに効いているわけだから、
無駄のない、すべてに存在の意味がある、
構造的に美しいストーリーであった、と納得したり、
このあと〇〇はどうしただろうな、と、
その先の幸福のことを考えたり、
つまりは、
「余韻を楽しむ」状態になる。
余韻を楽しむとは、
その世界の過去や未来や、
他の可能性について、想像を巡らせることである。
その世界での冒険があまりに楽しかったため、
もう少しその世界にいて、
まだ楽しんでいる状態である。
(その時に、無駄や矛盾が見つかってしまったら、
一気に覚めるというものだ)
上手に嘘を閉じよう。
後日談が最後に少しだけつけ加えられることが多いのは、
その後の未来を想像する楽しみを、ちょっと足しておくためだ。
想像する楽しみを与えるだけだから、
多くを語ってはいけない。
想像がふくらむように書くべきだ。
その前に、カタルシスのあるラストの決着があることが肝心だが、
その時にテーマが確定しているべきだ。
そのことについて、
余韻の中で、
観客が自分に引き合わせて考えるようなことになれば、
最高のラストであったといえるだろう。
もちろん、
テーマは暗示である。
演説したり、解説したりしてはいけない。
主人公に最初から足りなかったものが、
最後に自らつかむことでそれは暗示される。
そのものとは抽象的なものであるから、
それは何か具体的な物体、カメラで撮れるものになっているだろう。
つまり象徴表現になっているはずだ。
それに対して何かのアクション、動詞で表現することが、
そのテーマを表していることが理想である。
それが最大の問題の解決と同時であると、
カタルシスを生んだはずだ。
もう解決していない伏線がない。
すべてすっきりして残尿感がない。
全部が出た。全部がわかった。
そういう状態が理想だ。
あなたの嘘は、そうやって終わるべきだ。
そこですっきりすればするほど、
あなたの次の作品が、待たれるはずである。
さあ、次の嘘をつこう。
そうやって私達は、
何度もへんてこな嘘をつく。
嘘で始まっている癖に、
よい嘘が閉じるときは、
「そうだったのか」「そうだったんだな」と、「納得」で閉じる。
嘘はそのようにして人の心をあけて、
まるで本当のことのように記憶に残る。
ずっと書いていた小説が、ようやくリライトを終えられました。
どこかで発表を狙います。
2018年06月27日
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