2018年06月28日

すべてが伝わらなくてもいい

そもそもそれは、表現の基本かもしれない。


映画でも小説でもCMでも漫画でも、
作者の思いを100%受け取る人はいない。
背景の文脈、世の中での価値を鑑み、
全ての説明を完璧に理解しない。

あなたがそれらのものを見る時を考えるとよい。
そうだな、50%も受け取っていればいい方だよね。

何回か見れば分かるかもだ。
たった一回で、なにもかも受け止めているわけがない。

もしたった一回でなにもかも理解したなら、
2回目3回目で新しい発見はないということだ。

そんなことはないだろ?
あ、ここはこうなってたのか、
なんてことを大体思う。
1回目見た時には覚えてたけど、
2回目見るまで忘れてたことだってある。
それはつまり、
一回目で取りこぼしがあったってことだ。

そういう意味では、
私たちは50%も受け取ってるのかな。

30とか20とかしか、
その作品の本質を受け取っていないかもしれない。

それでもちゃんと伝わるのは、
人は補完するからである。

こういうことがこうなっている(理解)から、
あそこはああなっているだろう(補完)、
ということだ。

だってそうなってないとおかしい、矛盾だからね。


つまり忖度だ。
作品の一部でも良いと思ったら、
大抵の人は他も良いと補完する。

詳細は忘れたが、
特に変なところはなかったので、
概ね良かった「はず」と。



それは、
あなたの作品もそうだということに他ならない。

あなたの作品も、20とか30とか50とかしか、
理解されず記憶されない。


それをまず覚悟しなければならない。



リライトする時に、
最もよくある不安は、
「これは伝わるだろうか」だ。

100伝わらないことに、あなたは確実に不安を感じる。

で、
説明や設定を足したりする。
実はこれがこうで、あれはああなっていて、と。

その足した部分が、
せっかく補完されていた部分を、
邪魔することがある、
ということに気づかないまま。


殆どの観客は、殆どの作品を、
補完しながら見ている。

100%を見ない。


その補完を、邪魔してはならない。


不安はわかる。
しかし、そもそも20しか伝わらないと覚悟すれば、
余計な説明を細かく直す必要なんて、
どこにもないのだ。

せっかくスルスルといいリズムだったものが、
説明を足してうっとおしくなっている可能性だってあるのだ。


説明しようとするな。
補完したくなるように作れ。



あなたは説明したいだろう。
観客は補完したいのである。


その温度差に、自覚的になりたまえ。



リライトで最もよくあるのは、
説明が下手なところを、
詳細に描写しようとしてしまうことだ。
一回増やすと、
まだ足りないまだ足りないと、
どんどん増えていき、
一行だけのリライトが、数行、半ページ、ワンシーンと増えていく。

それいるのか?

正確な説明のためにいるのであれば、
それはいらないのではないか?

言い訳が100できたって意味ないんだ。

それは面白さを減じているのではないか?
と疑ってかかるべきだ。


説明なんて聞きたくない。
人は、楽しみたいのだ。

説明は最低限に、
というコツは、
補完しやすいように隙間をたくさん作れ、
ということに他ならない。

ここも空いてる、ここも空いてる、と、
説明を詰め込んで理解してもらおうと、
思うことではない。


すべてが伝わらなくてもいい。
観客の想像力を信じなさい。

説明を足していくことは、
わかりやすくすることではなく、
相手を信頼しない行為だ。


勿論、わかりやすくすること自体はよい。
説明を足すことがその方法とは限らないということだ。

あなたのストーリーは、
あなたの文章の中にはない。
観客の頭の中にあることに気付こう。
posted by おおおかとしひこ at 12:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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