ストーリーとは変化のことである。
刻一刻と状況が変化し、
対応したり先回りして状況を変えていく。
そのために行動をするわけだ。
ところで、
常に状況が目まぐるしく変わっているわけではない。
状況変化が一旦静まるときもある。
それはいつ?
「状況を把握しているとき」だ。
いわば説明の部分だ。
本当に状況が目まぐるしいならば、
「説明してる暇はない。あとで話す」となるはず。
その「あとで」話されるときは、
一旦は状況が落ち着いているときである。
で。
そこのところの説明は、
「状況を把握したい」と観客が思っている限りにおいては、
出来るだけ詳細にしても構わない。
説明が下手で冗長だから、
なるべく短くして済ませようと、
コンプレックスで短くするべきではない。
なるべく丁寧に説明しよう。
普段説明は短く!と言われているからと言って、
ビビる必要はない。
きちんと状況を、登場人物にも、
観客にも理解させよう。
観客だけ分かっていて、登場人物がわかっていない、
もしくはその逆、
特定の登場人物だけ分かっていて、観客には伏せられている、
いわゆる「劇的アイロニー」を、
使っても構わない。
(劇的アイロニーは、所詮は「見せ方」のテクニックに過ぎず、
ストーリーそのもの、すなわち動機と行動と結果、
には、なんら関係ないことに気付こう。
劇的アイロニーはいわゆる演出の範囲である)
さて。
状況が把握できたら、次は行動だ。
つまり、ストーリーには3つのフェイズがある。
状況の変化、
状況の把握、
行動である。
その結果状況が変化し、
誰かがその状況に対して行動し…
というループが、基本構造である。
あるいはターン制順番でなく、
同時行動したり、
先回りしたり、対応が遅れたり、
ということも勿論あるだけのこと。
行動は、肉体的オペレーションを伴うもの
(殴る、手紙を出す、ボタンを押す、○○へ行く、
つくる、こわす、など)
でも良いし、言葉による依頼や拒否でも構わない。
関係性が変化しない言葉のやり取りは、
行動に含まない。
その言葉を言うことで、これまでの関係が変わってしまう言葉が、
行動に含まれる言葉である。
(断る、結婚して、協力してくれ、あっちにいけ、
などなど)
行動そのものを描いているときは、
厳密には状況は変化せず、
何か決定的なことになったら、
状況の変化が起こるだろうね。
状況が変化しない。
行動しても状況が変化しない。
状況が変化しない言葉しか言わない。
だから、状況を把握するシーンもない。
それは、ストーリーではない。
逆にいうと、
ちゃんとしたストーリーには、
状況の変化があり、
それを把握するシーンがあり、
行動があり、
状況を変える言葉がある。
それが、変化の端緒のほころびからスタートして、
これ以上変化しない終着点にくるまでを、
ストーリーと呼ぶ。
ちなみに。
一人旅は擬似ストーリーだ。
居場所の変化という状況変化があり、
新しい場所や宿の状況把握があり、
次の場所へ行く行動があり、
家に帰ってくる。
しかしこれは一般的にはストーリーにならない。
他人との摩擦=コンフリクトがないからだ。
凸凹二人旅はストーリーになる。
ついでに旅先で会う人々との摩擦があり、
上手な結末になればストーリーになる。
股旅物は古くからあるストーリー形式のひとつだ。
その全体がなにかの意味がある、
という風に、上手に全体が組み立てられていれば、
映画的なきちんとしたストーリーになるだろう。
ストーリーがよく旅にたとえられるのは、
非日常性という特徴だけではなく、
このような類似があるからでもある。
2018年06月29日
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