2018年06月30日

【千ドルさんへの回答箱】ストーリーだと思っているもの

>人によって「ストーリーだと思っているもの」が違いすぎていて、しんどいときがあります。 プロの現場の方たちはどのようにストーリーを学んでいるのでしょう? そして、どのように「一緒に仕事をする人がストーリーだと思っているもの」を共有しているのでしょう?

プロの現場でも、
「同じものが共有されている」わけではありません。
少しずつ大事にしてるものが違ったりします。


ということで、
言葉による議論は大体は揉めます。
揉めた結果、
「通常公開版」「ディレクターズカット版」
があるということもあります。

監督が降りる場合もあるし、
ハリウッドでは、
「アラン・スミシー」という有名監督がいます。
(降板したいのだが、
責任上難しい時、作家としての名前を出さずに、
完成まで空中分解せずに仕事人としてやるときに、
監督名を出さないときの架空の名前です。
沢山のケースがあります。
邦画では「アマルフィ」がそうでした。
そうそう、「進撃の巨人」は中島監督が降りてしまいましたね)

バンドが解散するのが、
「音楽性の違い」であるように、
映画の世界でも似たようなものです。

「いけちゃんとぼく」での生々しい話をすれば、
プロデューサーサイドと僕の考える、
西原文学への理解が大きく異なり、
それが予算組やスケジュールや公開規模にも影響して、
作品の出来には大満足していません。
また、僕は彼らと組むことは一生ないと思います。




何をストーリーと考えるかは、
今までどういうものを見てきたかで、
実は大体決まります。
「読書体験が人を作る」と昔から言いますが、
僕は本は読まないけど、
映画と漫画は沢山見てきたつもりです。

だから、
大体は、「今まで見てきた傑作の話」をします。
共通のがなければ、
「最近見た共通の映画の話」をします。
それのどこを良いと思っているか語ります。
プロは映画好きだからこの世界に入ったので、
どこかで映画は見ています。

あるいは、プロになろうと思ったきっかけの映画が、
一本以上あるはずで、
互いが見てなくても、
それを語るときがあります。

ふとしたときでも、酒の場でも。


で、「こいつとは話が出来る」かどうかを、
見ていきます。


実際のプロの現場では、
役職が全員違うので、
目的が全員違います。
「ストーリーそのもの」に責任を負うのは脚本家でら
「興行」に責任を負うのはプロデューサーで、
「全体の完成度」に責任を負うのは監督です。
それぞれの立場から見れば、
「ストーリーはどうでもよくて、ウリがあればいい」
「ストーリーを犠牲にしても、偶然撮れたこれはよい」
なんてことはままあり、
それは脚本家から見た「ストーリーそのもの」
とは異なることがあります。



で。


僕は「いけちゃんとぼく」で感じた、
「ストーリーという同じ言葉で、
違うところを見ている」という状況に疑問を感じ、
ここを、始めたのです。

ストーリーとは○○である、
と言えれば、
「ああ、自分がストーリーと思っていたのは、
ストーリーではなかったのだな」
と、ここを媒介にして議論ができるのではないかと。

ちょっとは業界に貢献しているような気もしますし、
誰も見てないかも知れません。
長いし。笑


残念ながら、ストーリーとは○○である、
なんて簡単には言えそうにありません。
感情移入とテーマと行動では、
どれが大事ですか?
と問われても、○○、と答えられそうにありません。

ストーリーとはとても複雑で、
数式のように簡潔に言い表せない、
時計の部品のようになっています。



で、さらにぶっちゃけると、
「プロの現場は、完成が来れば終わる」ことが確定しているので、
文句を言わずさっさと終えて、
次の現場を探すことに注力する、
という現実的な選択肢があります。
「ここは、諦める」ですね。

僕は喧嘩してでも、これがストーリーだと思う、
という未熟ながら議論をしてもいいと思っていますが、
「どれだけストーリーのことを考えてきたか」
が違う以上、
すれ違うことの方が多いです。

プロの失敗作の多くは、
「真剣にやって間違えた」ではなくて、
「誰かが途中で投げた」が、
正解だったりします。

「あんなにプロが集まってどうして珍作に?」
の場合、誰かがどこかで諦めて、
ギャラだけ貰って流したのだと思います。


だから、プロジェクトは立ち上がり、
喧嘩して、解散するか、
止めるわけには行かないから、
流して終わらせるだけです。
(東京オリンピックは、後者になる予想)


自分の例でいうと、
「風魔の小次郎」は、皆が一つのものを見ている、
最高の現場でした。
スタッフは特撮畑の人たちでしたが、
「この監督は何やら面白いことを考えている」と感じ、
喧嘩せずに「特撮ではこうする」を教えてくれました。
「こういうことは出来ないのか」は随分言いましたが、
「その金はない」が沢山あったので、
僕は「じゃあガワは捨てる」と腹をくくりました。

正直、ハラワタが煮えくり返っていたスタッフもいたかも知れません。
でも出来を見れば、
誰だって監督の才能はわかるから、
この人の何かを引き出してあげようとなるものです。
「風魔」だって前半がギクシャクしてたけど、
後半に流れるようになっていったのは、
みんなが、噛み合いだしたからです。


5年に一回くらいそういうのがあって、
そういうときはいいものができます。

これが、プロになって良かったなあと思って、
ストーリーの魔物と付き合い続ける原動力です。



ちなみに、
僕の師匠の言葉を。

「圧倒的であれ」

「最初に出したものが圧倒的に面白ければ、
みんな黙る。負けを認めて従うようになる」

圧倒的な才能でねじ伏せろ、
ということです。
自分のアイデアが、
せっかくいい出来になっているのを台無しにする、
くらいはみんな判断できます。


そうじゃない現場は、完成後、
宣伝部や調整部とも揉めることになります。
揉めました。



で。

何も努力せずに生まれたままで、
脚本は書けるものではないので、
沢山書けと僕は常に言っています。

色んな人がストーリーについて語るべきだと僕は思いますが、
言葉が不自由すぎるように思います。
(そもそも用語の統一がない)

結論でいうと、だから僕はここを書いて、
なるべく言葉にしようとしている、
ということです。

呉越同舟が動けるのは、共通点を見つけたときで、
そのための言葉は多い方がいいと考えます。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ご回答いただきどうもありがとうございます。


そうなんです。
ストーリーは簡単に説明できないし、用語の統一がない。だから意志の疎通が難しい。

本業としてストーリーを学んでいる人同士ですら、同じ用語を別の意味で使っていることが多いように感じます。


じっくりと話し合う時間や、お互いに理解し合おうという姿勢があればいいのですが、なかなかそうもいかなくて嫌な思いをすることが多いです。

御礼が遅くなってしまい、申し訳ございません。ご回答どうもありがとうございました。
Posted by 千ドル at 2018年07月08日 17:03
なかなか難しいですね。
人は自分の先入観が間違ってると否定されると、
怒ったり自己防衛したり忌避したりする、
弱い生き物です。

僕はそれを乗り越えてもいいぐらいストーリーが好きなのですが、
多くの人にとってはそうではないのかも知れません。

何回か自分の先入観が壊れて、
辛い目に合わないと、
この殻を開くのは難しいと思います。

人付き合いのほうが難しかったりするのは、
会社でもフリーランスでも同じかもですね。

結局、「どこが面白いんだ?」という、
学生時代からのバトルを、変わらず続けることになりますね。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年07月08日 20:24
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