客観的になることはとても難しい。
のめり込んでいればいるほどだ。
のめり込んでいるときに、のめり込むのをやめろと言っても、
人には多分無理で、
のめり込みが落ち着くまで、まずは待つしかないかも知れない。
「第一稿をあげたら一ヶ月離れろ」という僕の経験論は、
人はのめり込みから逃れられない、
という現実論でもある。
で。
そのあと、どうやってそれを見るべきかについて。
「何を表現したいのか」で出来上がったものを評価するのではなく、
「何が出来ているのか」という視点で、
見ようということだ。
のめり込んでいるとき、
あなたは文字の後ろにいる。
あなたがいて、
文字をプッシュして、
誰かに届けようとしている。
あるいはひたすら記録している。
あなたと文字の一体感こそ、
あなたが作品を書くということである。
ところで、
作品を見る人はそこにはいない。
文字の前にいる。
文字をスクリーンと考えても良い。
あなたと文字はスクリーンの裏にいて、
見る人は文字とスクリーンの表にいる。
文字を挟んで、あなたと観客は、
対称の位置にいる。
文字の前にいる人は、
「解読」からスタートする。
あるシーンがある。
あるセリフがある。
ある事件があり、ある行動がある。
ストーリーの起こりから、
まだ全貌を知らない状態で、
文字の前で、
観客は、「一から組み立てる」をする。
ある程度予測や期待もするだろう。
半ばまで進んだとき、
さあ後半戦だと思ったり、
まだ半分終わってないのかとうんざりすることもあるだろう。
いずれにせよ、
観客は、
「文字で出来たものから、
ストーリーを頭の中に再構築する」
をする。
それが、読む/見るという行為である。
そこには、あなたと文字の関係なんて、
関係ないのである。
出来上がったそれらから、
想像していくことはあるけれど。
観客にとって重要なことは、
「そこに出来上がったものは何か」
でしかなく、
「あなたと文字の関係」
ではない。
観客は、
「そこに出来上がった何かと、関係を結ぶ」のだ。
そこに出来上がってないものは、彼らにとって存在しない。
そこに出来上がった、出来のいいものは彼らにとって存在感があり、
そこに出来上がった、出来の良くないものはノイズである。
それだけのことだ。
あなたが他人の作品を鑑賞するとは、
そういうことである。
登場人物のことだけを考えて、
ここでの作者の気持ちは考えない。
(出来が悪いと、退屈して、
そんなことを邪推していることはあるが)
作者の気持ちなんてどうでもいい。
問題は、その登場人物の気持ちで、
それがどうなっているかだ。
あなたがそのように鑑賞するように、
観客もあなたの文字を鑑賞する、
というだけの話だ。
文字として出来上がっている部分から、
世界を想像したり、
主人公の気持ちを想像したり、
敵の思惑を考えたり、
自分の人生に引き寄せて考えたりするだけの話である。
作者と文字の関係は気にしていない。
にも関わらず、
「これは私の表現したかったものではなく、
実はこういうことがしたくて…」
と考えている作者には、
私たちは興味がないのである。
出来上がったものが、
どういう楽しみ、興奮、示唆、興味、感情を、
与えてくれるかにしか興味がないのである。
ということは。
「表現したかったもの」と、
「今出来上がっているもの」を、
正確に表としてリストアップできるか、
が、
「どちらの立場からも見た、
真の客観的評価」
ということになる。
文字の裏と表を、両方曇りのない目で正確に捉えられるか、
ということになるわけだ。
勿論100%それを捉えることは難しい。
しかし、
「表現したかったもの」ばかりを見ることは、
この段階において、いい作戦ではない。
「出来上がったもの」から、
人は何を構築するだろう。
それを強化していくには、
何が足りないか。
何は余計か。
それを変更していくには、
何が足りないか。
何は余計か。
それを見積もることが、
真の客観的になることだと、
僕は思う。
2018年06月30日
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