2018年06月30日

何を表現したいか、ではなく、何が出来ているか、でしかない

客観的になることはとても難しい。
のめり込んでいればいるほどだ。
のめり込んでいるときに、のめり込むのをやめろと言っても、
人には多分無理で、
のめり込みが落ち着くまで、まずは待つしかないかも知れない。
「第一稿をあげたら一ヶ月離れろ」という僕の経験論は、
人はのめり込みから逃れられない、
という現実論でもある。

で。

そのあと、どうやってそれを見るべきかについて。


「何を表現したいのか」で出来上がったものを評価するのではなく、
「何が出来ているのか」という視点で、
見ようということだ。


のめり込んでいるとき、
あなたは文字の後ろにいる。

あなたがいて、
文字をプッシュして、
誰かに届けようとしている。
あるいはひたすら記録している。

あなたと文字の一体感こそ、
あなたが作品を書くということである。

ところで、
作品を見る人はそこにはいない。
文字の前にいる。

文字をスクリーンと考えても良い。

あなたと文字はスクリーンの裏にいて、
見る人は文字とスクリーンの表にいる。

文字を挟んで、あなたと観客は、
対称の位置にいる。


文字の前にいる人は、
「解読」からスタートする。

あるシーンがある。
あるセリフがある。
ある事件があり、ある行動がある。
ストーリーの起こりから、
まだ全貌を知らない状態で、
文字の前で、
観客は、「一から組み立てる」をする。

ある程度予測や期待もするだろう。
半ばまで進んだとき、
さあ後半戦だと思ったり、
まだ半分終わってないのかとうんざりすることもあるだろう。

いずれにせよ、
観客は、
「文字で出来たものから、
ストーリーを頭の中に再構築する」
をする。

それが、読む/見るという行為である。


そこには、あなたと文字の関係なんて、
関係ないのである。


出来上がったそれらから、
想像していくことはあるけれど。



観客にとって重要なことは、
「そこに出来上がったものは何か」
でしかなく、
「あなたと文字の関係」
ではない。

観客は、
「そこに出来上がった何かと、関係を結ぶ」のだ。

そこに出来上がってないものは、彼らにとって存在しない。
そこに出来上がった、出来のいいものは彼らにとって存在感があり、
そこに出来上がった、出来の良くないものはノイズである。

それだけのことだ。

あなたが他人の作品を鑑賞するとは、
そういうことである。

登場人物のことだけを考えて、
ここでの作者の気持ちは考えない。
(出来が悪いと、退屈して、
そんなことを邪推していることはあるが)


作者の気持ちなんてどうでもいい。
問題は、その登場人物の気持ちで、
それがどうなっているかだ。



あなたがそのように鑑賞するように、
観客もあなたの文字を鑑賞する、
というだけの話だ。

文字として出来上がっている部分から、
世界を想像したり、
主人公の気持ちを想像したり、
敵の思惑を考えたり、
自分の人生に引き寄せて考えたりするだけの話である。

作者と文字の関係は気にしていない。



にも関わらず、
「これは私の表現したかったものではなく、
実はこういうことがしたくて…」
と考えている作者には、
私たちは興味がないのである。

出来上がったものが、
どういう楽しみ、興奮、示唆、興味、感情を、
与えてくれるかにしか興味がないのである。


ということは。


「表現したかったもの」と、
「今出来上がっているもの」を、
正確に表としてリストアップできるか、
が、
「どちらの立場からも見た、
真の客観的評価」
ということになる。
文字の裏と表を、両方曇りのない目で正確に捉えられるか、
ということになるわけだ。

勿論100%それを捉えることは難しい。
しかし、
「表現したかったもの」ばかりを見ることは、
この段階において、いい作戦ではない。


「出来上がったもの」から、
人は何を構築するだろう。

それを強化していくには、
何が足りないか。
何は余計か。

それを変更していくには、
何が足りないか。
何は余計か。


それを見積もることが、
真の客観的になることだと、
僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 12:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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