2018年07月03日

何なら命を賭けるのか

それは人によって様々だろう。

それが物語のバリエーションだともいえる。


譲れない信条のため。
好きな人のため。
生活のため。
昔からの夢。
諦めたらそこで終わりだから。
人生を変えられるかも知れないから。


行動は賭けだ。
つまり、ストーリーとはギャンブルだ。

勿論、
勝てる確率を上げたり、
負ける確率を下げたり、
戦術としては色々やるだろう。

しかしその奥底にある、
「何故その賭けに出るのか?」は、
登場人物によって様々だ。

逆にそれを作れないと、
ストーリーは前に進まない。


「危険を犯して前に進む」
というのはストーリーの基本だ。

ということは、

・危険は何か
・何故危険を冒すのか
・何故進みたいのか
・何故失敗せず成功したのか

がきちんと創作されていないと、
ダメだということ。


その中でも最初の原動力になる、
動機ができていないと、
ストーリーはすぐに停滞してしまう。
「そうまでしてこれをやる?」
となってしまう。

だから動機こそがストーリーの軸足だ。
そこがグズグズなら、
何を書いてもグズグズだ。


何ならその人は命を賭けるのか。
そこの所が創作である。


で、気をつけるべきことは、
相変わらず「自分なら○○と命を守る引き換えにする」
という例を出してはいけないことである。
(自分を書いてはいけない)

何故なら、○○は説明なしに善となってしまうからだ。
それでは他人を説得できない。
○○に興味のない人にも、
○○のためならしょうがない、
と思わせるのが、
三人称形のストーリーというものである。

だから、他人が△△のために命を賭けるのを描き、
この人なら△△に命を賭けるだろうなあ、
と思わせる物語を作らなければならないのだ。

だから、あなたの○○と△△は、
別のものにしておくことだ。


仮に、
「健康のためなら死んでもいい」
というキャラクターを作るとしよう。

健康法が行き過ぎるとこうなるよね、
というパラドックスで出てくるけれど、
実際にこれを主人公にしてみよう。

何故その人はそう信じるに至ったのかを、
創作するのである。

病弱で他人が羨ましかった。
健康になって初めて彼女ができた。
健康な一日を一回でいいから過ごしてみたい。

なんでもいい。
「健康のためなら死んでもいい」
と普通言われたら、
「そんなバカな」
と思ってしまうことに対して、
「それならわかる」を、
創作していくのである。


病弱で常に酸素マスクを外せずに育った子供で、
リュックに常に小ボンベが入っていて、
全速で走ることが出来なくて、
それでも運動会に出たくて、
無理して倒れたこともあり、
大人になってもリュックを外すことは出来ず、
好きな人と手を繋いだまま、
草原に寝転びたいと思ったが、
リュックの為叶わず、
「健康になれたら死んでもいい」と思い、
病気に立ち向かう男の話を考えよう。

こうすれば、
今後の困難に対して、
たとえば新しいヘンテコ健康法を試したり、
それが命にかかわるものであったとしても、
彼がどうしてもそれをやろうとすることに、
感情移入して見ていけるはずだ。


つまり、
「その人の動機に心を動かせる」
ことをやると、
話は動き出す。


あなたの○○を描かない方がいい、
というアドバイスは、
そのような他人への説得力に、
客観的になれないことを意味している。

だから全然違う、
あなたと関係ない△△を見つけると、
あるいは創作すると、
面白いストーリーを描ける可能性がある。
posted by おおおかとしひこ at 13:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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