2018年07月09日

ネーミングと箱庭

ネーミング「だけ」をするのはとても楽しい。
すでにあなたはいくつかのネーミングをしたことがあるはずだ。


人物の名前を決めたら、
その人がどういう外見で、
どういうことを言いそうで、
どういう性格か、
なんとなく想像できるものだ。

雪彦はクールだろうし、
心愛は甘えん坊で愛らしいだろうし、
源次はシブいだろうし、
涼子は涼やかな目元で透き通った肌だろう。

ファンタジー世界の地図を作る遊びもある。
国の名前や川や海や山の名前を考えたり、
町の名前を考えたり、
特産品や気候を考えたりするのは楽しい。
そこに生きる生物を考えるのも楽しいし、
滅びた旧世界の文明を考えるのも楽しい。
もう伝説の剣や魔法の名前も考えてあるだろう。

SFなら星の名前を考えたり、
種族の名前や特徴を考えたり、
ワープ航法やすごい科学技術の名前を考えたり、
世界を滅ぼしかねない兵器の名を考えたりするのは、
とても楽しい。

リアル系ならば、
最寄駅はどこに住んでるのかとか、
どういうファッションが好きかとか、
その町の主要産業や祭りはどんなかとか、
会社や学校はどんな感じかとか、
あたりにどういう店があるかとか、
好きな食べ物や嫌いな食べ物、
部屋の中はどんな感じかとか、
休日にすることや趣味は何かとか、
それにまつわる面白エピソードとか、
そういうのを考えるのは、
とても楽しい。


これらは、心理療法でいう箱庭療法である。

心に問題やストレスを抱えているとき、
人は現実逃避をする。
全く別の現実に浸ることが、
とても楽しくなるのだ。

物語も一種の箱庭である。
現実とは全く違った異世界に浸ることで、
一端現実を忘れさせるのは、
物語の効用だ。

全くの異世界を想像して楽しむのは、
神話の時代からの人類の楽しみである、
と言っても過言ではないだろう。

僕は、宗教すら、この箱庭療法の一種ではないか、
とすら考えている。


だから、
そういういくつかの世界を持つことは、
ストーリーテラーになる第一歩である、
と言っても過言ではない。

そして、
リアリティ溢れる、
夢やワクワクが溢れる、
架空の世界をいくら作っても、
ストーリーにならないことだけは理解しよう。


なぜなら、
その世界はフィックスだからだ。

その世界は定常状態として設定されたはずだ。
だから変化しない。

世界の変化する、時間軸こそがストーリーだ。

その国の存亡の危機だとしたら、国のストーリーで、
誰か個人の存亡の危機だとしたら、個人のストーリーで、
何かの集団の存亡の危機だとしたら、集団のストーリーである。

ストーリーは事件から始まる。
直接存亡の危機から始まっても良いし、
その事件が進展していくうちに、
存亡の危機になってもよい。

なにせ危機がないと人は動かないので、
危機からストーリーは始まる。
最初に爆弾が破裂してもよいし、
たいした危機だと思ってなかったのに、
いつのまにか危機になってしまってもよい。

それから、あれやこれやあって、
再び同じ定常状態に戻るか、
悪い定常状態に戻るか、
より良い定常状態になるかを、
ストーリーという。

それぞれ、
行って来いまたはループ、
バッドエンド、
ハッピーエンドという。


で、神ががちゃがちゃやるのではストーリーにならない。
人が何かをすることで、
最終的にそこまで行くのがストーリーだ。
人は一人ではなく、
複数いるので、協力したり対立したりして、
最終形にいく。

そもそもその危機は人が起こしたかもしれないし、
天変地異かもしれない。
(大抵は誰か他人の悪意によってもたらされる。
そのあとの対立や協力が面白くなるからだ)


このように、
箱庭で、
存亡の危機を回避するために、
人々が協力したり対立したり何かをしたりして、
よりよい箱庭にすることが、
ハッピーエンドのストーリーである。


その為に、設定した人々が集まったり、
別れたりして、
何かをする。
それがストーリーの構造だ。

三幕構成が構造ではない。
それは時間軸に関するだけの構造で、
ストーリーは4次元の芸術である。

そして箱庭は3次元までしか存在しないということだ。



箱庭を作ってニヤニヤすることは、
高尚な趣味であると僕は思う。

ジオラマなんてその典型だよね。
庭づくりや家づくりなんてのも、
その一種で、
手芸や絵画や彫刻も、その一種だと考えると、
分かりやすいと思う。


しかしそれらはストーリーの構成要素ではあるが、
ストーリーそのものではない。
高々3次元世界であるからだ。


これがストーリーになるためには、
これらが動かなくてはならない。

理系なら、df/dt=0はストーリーではない、
と言えば一言で理解できるだろうか。


ストーリーとは、
箱庭学園どのような変化をし、
どうなって、
どうなって、
最終的にどうなったかであり、
それは全て人によるオペレーションの末に、
そうなることが条件だ。


男子は世界とか宇宙を操作したがり、
女子は人間関係や服や家を操作したがるが、
その性差はおいといて、
それらは全て変化しなければストーリーではない。


箱庭を作る人は沢山いる。
厨二ノートを作った人は沢山いる。
それ自体は創作者になるための第一歩で、
恥ずかしいことでもなんでもない。(いや恥ずかしいが)

しかしそれはあくまで3次元世界に過ぎず、
ストーリーテラーに必要な、
4次元要素は0だということに気づくべきだ。


ちなみに、
僕のオススメは、
ネーミングなしでプロットをつくり、
出来たところで、そのストーリーに相応しい、
あるいはちょっとずらしたネーミングをしていくことだ。

先に雪彦と決めてしまうと、
ストーリーの都合でクールでいられない時もあり、
ストーリーの方が制限を受けてしまうからだ。
ストーリーの創作に足枷になるということである。

定常状態が創作のエネルギーになるべきではない。
変化のエネルギーは定常状態からは出ない。
動機こそが変化の動機であり、
それはネーミングや設定からは生まれない。



それを分かった上で、
ネーミングセンスを鍛えるためにネーミングをすることは、
とても良いと思う。



優れた作品はネーミングが優れていることが多い。
ネーミングがストーリーを生み出しているように錯覚する。

しかし本当は、
先にストーリーがあり、
それをうまく増幅するように、
いいネーミングがガワに被されているだけの話である。

「写ルンです」というネーミングだけ作って写真機を発明出来ない。
ポータブルな写真機を作ってから、
「写ルンです」と命名することはできる。
posted by おおおかとしひこ at 14:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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