「落下する夕方」は、映画としては最低の出来で、
我々はこれから学ぶことは沢山ある。
しかしこのテンプート自体は、
心の回復を、一人称形で綴ったもの、
という見方が可能だ。
私たちは傷つき、
動けなくなるほど落ち込んだ時、
どのようにして心が回復するのだろうか。
基本的にはじっとしているしかない。
一人になって何かを考えたり、
ぼーっとすることしかない。
勿論それを誰かに語ることで客観化し、
主観から抜け出て客体として自分を捉えられるようになると、
回復が進むこともある。
精神科医のカウンセリングの基本だ。
しかしそこ以上に傷つけられている場合、
他人に語ることもできない事がある。
(更にひどい場合は自己防衛本能として、
なかったことにする抑圧的な健忘も存在する)
で、
そういうときは、陽キャが救ってくれる事があるんだよね。
ほらこっちおいでよ、と手を引いてくれる人について行って、
異世界を体験しているうちに、
心が回復して、
自分の人生頑張ろう、
って思えることはよくある事だ。
「落下する夕方」は、
この心の癒しの過程を丁寧に描いているだけの話だ。
でもそれは、
「一人称から見た世界」でしかないことに、
留意されたい。
「私の心の傷つきからの回復」は、
カメラで撮る事が出来ないもののひとつだ。
三人称の芝居では、
「辛そうな顔が喜ばしい顔になる」でしか表現できない。
そんなもの、
テレビCMで山ほど見れる。
お通じが来ないがスッキリ!なんて顔芸は、
1秒半程度で見る事が出来るだろう。
あるいは、ビールを飲んでクーッ!
なんて顔芸も2秒程度で見れるだろう。
心の中の気持ちの推移なんて、
三人称ではその程度だ。
物語を書くという行為は、
書き手の心を癒す力がある。
精神科医に語るのと同じで、
自らを客観化して、落ち着き、
心の回復を促す効果がある。
書き手はそれを無意識にやることがあり、
それ自体は否定しない。
ゆっくり回復してください。
だがそれを、人前に出すべきか?
という問題なのだ。
多くのメアリースーの場合、
それとこれとを分離できず、
無意識になってしまっている。
そこが問題なのだ。
作者は、
「書くことによって癒された。力のある物語だ」
と思い込み、
見せられた人は、
「お前のカウンセリングなんて見たくねえよ」
と思うわけだ。
これが一人称小説ならば、
心の内面を書くことが出来るから、
同じ波長を持つ人が共鳴する何かを書けるかも知れない。
が、
三人称芝居では、
二時間苦しい顔で、
最後の五分でお通じスッキリの顔を見させられるだけである。
一人称で、自分を癒す書くという行為。
三人称で行動と展開に心踊らせるもの。
その、無意識の混同こそが、
「落下する夕方」テンプレを生むのである。
メアリースーにどんなにメアリースーだと言っても気づかない。
逆にそれが恥ずかしいことだとわかった瞬間、
激しく傷つき、二度と物語など書こうとしなくなるだろう。
メアリースー症候群は、
目的と手段の取り違えのようなものだ。
まあ、誰もが通る中二病のようなものだ。
それ自体は責めるべきことではなく、
次に何を書くかでしかない。
それを自覚した上で、
現実的な解法は、
「自分を書くな」「他人を書け」
ということではないかとぼくは考えている。
2018年07月10日
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