2018年07月10日

「落下する夕方」テンプレは癒しの一人称である

「落下する夕方」は、映画としては最低の出来で、
我々はこれから学ぶことは沢山ある。

しかしこのテンプート自体は、
心の回復を、一人称形で綴ったもの、
という見方が可能だ。


私たちは傷つき、
動けなくなるほど落ち込んだ時、
どのようにして心が回復するのだろうか。

基本的にはじっとしているしかない。
一人になって何かを考えたり、
ぼーっとすることしかない。

勿論それを誰かに語ることで客観化し、
主観から抜け出て客体として自分を捉えられるようになると、
回復が進むこともある。
精神科医のカウンセリングの基本だ。

しかしそこ以上に傷つけられている場合、
他人に語ることもできない事がある。
(更にひどい場合は自己防衛本能として、
なかったことにする抑圧的な健忘も存在する)


で、
そういうときは、陽キャが救ってくれる事があるんだよね。
ほらこっちおいでよ、と手を引いてくれる人について行って、
異世界を体験しているうちに、
心が回復して、
自分の人生頑張ろう、
って思えることはよくある事だ。

「落下する夕方」は、
この心の癒しの過程を丁寧に描いているだけの話だ。

でもそれは、
「一人称から見た世界」でしかないことに、
留意されたい。


「私の心の傷つきからの回復」は、
カメラで撮る事が出来ないもののひとつだ。
三人称の芝居では、
「辛そうな顔が喜ばしい顔になる」でしか表現できない。
そんなもの、
テレビCMで山ほど見れる。
お通じが来ないがスッキリ!なんて顔芸は、
1秒半程度で見る事が出来るだろう。
あるいは、ビールを飲んでクーッ!
なんて顔芸も2秒程度で見れるだろう。

心の中の気持ちの推移なんて、
三人称ではその程度だ。



物語を書くという行為は、
書き手の心を癒す力がある。

精神科医に語るのと同じで、
自らを客観化して、落ち着き、
心の回復を促す効果がある。

書き手はそれを無意識にやることがあり、
それ自体は否定しない。
ゆっくり回復してください。

だがそれを、人前に出すべきか?
という問題なのだ。


多くのメアリースーの場合、
それとこれとを分離できず、
無意識になってしまっている。
そこが問題なのだ。

作者は、
「書くことによって癒された。力のある物語だ」
と思い込み、
見せられた人は、
「お前のカウンセリングなんて見たくねえよ」
と思うわけだ。

これが一人称小説ならば、
心の内面を書くことが出来るから、
同じ波長を持つ人が共鳴する何かを書けるかも知れない。

が、
三人称芝居では、
二時間苦しい顔で、
最後の五分でお通じスッキリの顔を見させられるだけである。


一人称で、自分を癒す書くという行為。
三人称で行動と展開に心踊らせるもの。

その、無意識の混同こそが、
「落下する夕方」テンプレを生むのである。


メアリースーにどんなにメアリースーだと言っても気づかない。
逆にそれが恥ずかしいことだとわかった瞬間、
激しく傷つき、二度と物語など書こうとしなくなるだろう。

メアリースー症候群は、
目的と手段の取り違えのようなものだ。


まあ、誰もが通る中二病のようなものだ。
それ自体は責めるべきことではなく、
次に何を書くかでしかない。

それを自覚した上で、
現実的な解法は、
「自分を書くな」「他人を書け」
ということではないかとぼくは考えている。
posted by おおおかとしひこ at 14:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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