2018年07月11日

【薙刀式】言葉の感覚と左右

僕はある程度共感覚を持っていることについては、以前にも書いた。
(共感覚とは、普通の分離された感覚が混じってしまう混線の感覚だと思うと、
想像しやすいかも)

文字に色が見える、「概念と色覚」の共感覚(=混線)以外にも、
「概念と空間」の共感覚もある。

利き手が右ということや、
横書きが左から右に書く長年の習慣の影響もあるだろうが、
以下のような、
「この言葉は左にあるべき/右にあるべき」という感覚があって、
薙刀式はおおむねそれに準じている。



・つなぎの言葉は左/決定の言葉は右

これが薙刀式の左右の考えを決定的にしていることは、
誕生時に記している。

「ある」「ない」の存在と否定、「する」の動詞、
「た」「だ」の断定、過去、確定、
「ん」の否定、推定や未来の「う」、
は僕にとっては右だ。
「概念の確定」の言葉ともいえるだろうか。

また、
「思う」「考える」「やる」「得る」「いる」
という根本的な動詞がすべて右手というのも、
僕は気に入っている。


逆に、つなぎの言葉は左だ。

つなぎの言葉というのも感覚的なものだが、
助詞や助動詞や語尾はこれにあたるかもしれない。

「て」「で」「と」「は」「ば」「が」「に」
「にて」「して」「じて」「てき」「まで」「までに」「って」「っと」
「けて」「げて」「せて」「ぜて」「みて」「めて」「きて」「りて」
などはすべて左だ。

「の」「も」「へ」「なら」「たら」「にも」「な」「てきな」
「ので」「など」「から」「のは」「ならば」「れば」「ければ」
は右左交じりになってしまっているのが、本当は気に入っていない。

しかし終点が左になっている二行目のものは、感覚的によいように思う。



・他人事は左/自分のものは右

「こと」、指示代名詞は左。

指示代名詞については、
これ、それ、あれ、どれは、「あ」を除いて、
初期のころはすべて左手であった。

現在は運指の都合上「れ」は右手に来ているが、
それでも始動は左手を死守しているのはそういう感覚。
ここ、そこ、あそこ、どこ、も同様。
「とき」「ところ」「ひと」「こと」が全部左なのも気に入っている。

なぜか「もの」は自分事のような感覚がある。
「こと」が他人事のような感覚なので、
それが左右にきれいに分かれているのが、自分の感覚の反映。


ときとところが左手にある感覚が気に入っていて、
考えるや思うが右手にある感覚が気に入っている。
時空間の指定が左で、行為や思考が右、という感覚は、
左脳(右視野担当)が論理、右脳(左視野担当)が空間把握、
ということと関係している可能性は、
なくはない。


人称でいうと、一人称が右で、二人称が左。
「おれ」「自分」「僕」は右。
「じぶん」「ぼく」は運指の始動が左であるが、最終的には右手に来る。
ちょっと他人を意識している人称だと思う。
「わたし」は始動が右だが終点が左なので、
自分を他人に見せるときの感覚の一人称、
というのがよく表れていると思っている。

二人称の「きみ」は左。
「さま」は始動は右だが終点は左なので、他人の意味になっていると思う。「きさま」とか。
「あなた」はその中でも右なので、親しい仲の感覚が運指に表現されていると思っている。
「ユー」は使わないので、しらない。
「お前」は右手終わりだが、気に入っていない。
でもそもそもあまり使わない言葉だし。
(「手前」というへりくだった言い方は、
二人称のエリアから一人称のエリアに来るので気に入っている)

ちなみに、
演劇での上手(画面右側)は目上や主役の登場場所、
下手(画面左側)は敵や下々の者の登場場所、
と昔から決まっている。なにか関係あるかもしれない。


もちろん、一人称のもっとも古語は、
「あ」または「わ」だったことは知っている。
どちらも根本的なものだと思っていて、右手人差し指中段担当だ。
「わ」はそこまで頻度の高い音ではないが、大事なところに置いておきたいという意味で、
H位置というのはなかなか渋くて気に入っている。



・漢語の二文字目は右

漢語の二文字目は、「ういんきくちつっ」しか来ない。
そのうち、「ち」「き」のマイナーなもの以外は、すべて右に来ている。
つまり漢語はおおむね左から右の運指になるようになっている。
撥音便「っ」は、次にも漢語が来るとき限定だから、
つなぎの言葉扱いになっている感覚。

・拗音は左から右

同様に、拗音の第一音(イ段カナ)は左、
第二音の小書き(ゃゅょ)は右に来るようになっている。
(これは飛鳥でも同様の左右関係になっていたよね)
これは薙刀式のシステムを支える配置になっている。

さらにそこから連接しやすい、
「う」「ー」「く」「つ」「ん」は拗音の一部のような感覚で、右においてある。

外来音に関してはこのように反映しきれていないのが、
薙刀式の弱点でもあると考えている。

(多くのカナ配列は外来語に弱いという欠点を原理的に抱えていると思う。
外来語の出現は文脈によって大きく異なるが、
日本語はどこでも出てくるので、統計に乗りにくいのだ。
統計ベースで作らなければいいのかもしれない)

ティ、ディ、トゥ、ドゥ、デュ、
ヴ、ヴァ、ヴィ、ヴェ、ヴォなんかは典型的にできた。
「ふ」を左側におくと、
「ふぁ」と「ぶ」を同時打鍵の定義で区別できなくて、
やむなく右側においているのがあまり気に入っていない。


・音便は右

省略されたものは右、という感覚だ。
う、い、ん、などの音便になるものはすべて右にいる。
(撥音便については上に述べたようにつなぎ意識が強いので左)
長音「ー」に関しても同様の右の感覚。
編集モードの記号、「……」「──」もほんとうは右に置きたいのだが、
色々ひしめいていて難しい。

・「、」は左、「。」は右

途中のものは左、確定したものは右、
という感覚。
上の感覚と連続していることがわかるかと。

逆にいうと、
Qwertyの「、」「。」がどちらも右手にあることが、
気持ち悪くてしょうがなかった。
さらにいうと、親指シフト(ニコラ)の句読点が左右逆なのが、
もう鏡の世界のような感覚になってしまう。


ざっくりいうと、
客体は左、主体は右、
途中は左、確定は右、
向こうは左、こちらは右、
という感覚か。

(v8で「む」を右に持ってきたのは僕的には痛恨なのだ。
だから現在むねを入れ替えてテスト中)
キーが左に傾いていることも、関係しているかもしれない。



これらは僕一人だけの感覚かもしれないし、
他の人もある程度ある感覚かもしれない。
真逆の感覚を持つ人もいるかもしれないし、
全然違う感覚の人もいるかもしれないし、
感じる音の範囲がぜんぜん違う人もいるかもしれない。
感覚の話だから、
味覚が人によって違っても、飯の話はだいたい出来ることと同じかもしれない。
(そして飯の恨みは強いんだよね)

このような感覚を持つ僕にとって、
「自分の言葉を両手で表現する」場で、
左右の感覚が異なる配列を使うことがいかに苦痛だったか、
想像はできるかもしれない。

字を書く手書きなら、
右手しか使わないからそれに気づかなかった。

しかしブラインドタッチなるものを一年半前に習得しようと思って、
両手を使わざるを得なくなり、
鍵盤の左右の違和感が強烈にあり
(それは左手に箸を、右手に茶碗を持つがごとき矯正の強迫観念)、
だから僕は、
「鍵盤を使うとしたら左右の感覚を反映させたい」
と思って、
配列自作に踏み切ったのかもしれない。


ローマ字時代は子音と母音でわかり易かった。
カナ配列がそううまいこといくとは思っていなかったから、
カタナ式で一生やっていこうと思っていたのだが、
ある日「あるないする」に気づいてしまって、
ここまで来た感じだ。

本文中に触れたとおり、
100%うまいこといってはいない。
それはカナの特徴であるところの、
なんにでも接続してしまう、
ということとも関係していると思う。

にしても、
なかなか許容できる範囲にまで来ているのが、
僕が薙刀式を使う理由だ。




以下余談。

共感覚者は、そうでない人に比べて日常生活の苦痛が大きい。

僕は色に文字が見えるから、
人の書いた文章の色使いが汚いと、色のセンスのほうが気になって、
内容が入らなくなってしまう。
意識すると消すことはできるが、スイッチを切り忘れていることはよくある。

無意識から言葉を掘り出す物書きの瞬間において、
左右の感覚が違うと、鏡像反転のようなつらさを味わうことになる。

これは上中下段の高さにもあるのだが、
それはなんとなく想像できるかもしれない。
重い音と軽い音があり、なるべく重いのは下段に、軽いのは上段に置いている。
もちろん連接上のことがあるので、全部そうはいっていないが。

正直なことをいうと、
飛鳥や新下駄を習得しようと思わないのは、
色の感覚や左右の感覚が全然あわないからだ。

あんまりこういうことを言っている人がいないので、
書いてみた。
人によって色や感覚が違うということも、僕は知っている。
posted by おおおかとしひこ at 16:14| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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