無理だろう、しかし素人を騙すレベルなら可能かもしれない。
その脚本で映画をつくる場合、
たいして面白くはないが、ある程度のヒットはいくかもしれない。
つまり、プログラムピクチャーはつくれるかもしれない。
文章という形式の構造上の問題については、
以前議論した。
文章には表現と内容のふたつの層があり、
同じ内容でも別々の表現があり得る。
また同一の表現でも文脈が異なれば、全く違う意味になることがある。
同一の表現を複数の意味を持たせることが出来る。
また同じ意味を、
同一の表現を使わず、別の表現にしてリフレインすることがある。
このような、
表現と内容の一意性が失われている、
数学の記号とは全く違うものが文章であり、物語だ。
現在主流のディープラーニングは、
ビッグデータから表現を学習し、
「こういうときはこういう表現をするものだ」
ということまではある程度学ぶことができる。
だから人工知能の書く言葉は、
ある程度までは小説的、脚本的な言葉になるだろう。
しかしそれができるのは、
「表現まで」である。
粋なセリフ、面白げなシチュエーション、
変わった組み合わせなどは作れるかもしれない。
しかし、それらが連なったときにどういう内容になっていって、
それらの流れや結果が、どういう意味をもたらすかについては、
学習することができない。
もっとも、
内容と表現の両方を教え込み、
流れについても教えることができれば、
学習の可能性はゼロではない。
で、ここからが今回の本題。
誰が教える? ということ。
表現と内容に関することで、
ルールはない。
だから誰かが教えなくてはならない。
つまりは、その教える人の、
センス次第になってしまう、ということを言おうとしている。
機械学習には、原理上教師が必要である。
将棋や囲碁なら「定石」「過去の棋譜」である。
それは数学的にまとめられているから、
人工知能は学習可能なのだ。
つまり、
数学的に、
内容と表現について、誰かがまとめられれば、
学習できるかもしれない。
そんなこと、人類の誰もなしえていない。
僕が延々ここに書いている事だって、
脚本の理論の一部でしかない。
つまり、将棋や囲碁は、
ディープラーニングにとって学習しやすい対象なのである。
いや、数学的なデータでなくても、
テキストデータのようなものを読み込んでいけばいけるのではないか。
じゃ、誰がそれを、「よい」「わるい」と教えるのか?ということである。
人間の場合だって、
「師匠筋」という考え方がある。
その師匠について学んだ場合、
その師匠がどういうものをどう表現してきたかに、
影響を受けるということだ。
つまりディープラーニングですら、
「誰かの師匠筋に所属する」でしかないだろう。
複数の師匠に師事することは可能か。
不可能ではないが、
それぞれの師匠がいうことは別々だろう。
その矛盾を弟子がどう考えるかが表現になってくるが、それは学習ではない。
そもそも、表現理論というのは、
人によって異なる。同じ理論ではない。
ディープラーニングが将棋や囲碁を学習できたのは、
明確によい/わるいを決められたからだ。
すなわち勝ち/負けである。
表現というものは、
勝ち/負けを明確に評価できない。
いや、人工知能が学習しやすいように、
勝ち負けを教える教師がいればよい。
しかし、それはまた師匠筋の問題をはらみ、以下ループ。
その人の傾向を覚えるに過ぎないだけだ。
では、それをビッグデータで教えるといいのだろうか。
アメリカの人工知能がツイッターをもとに学習したら、
ツイッターに一番出ている話題、
911陰謀論とヒトラー礼賛を覚えたそうだ。
つまり学習とは統計の反映であり、
ビッグデータを学習するとは、
ノイズの統計を反映させることである。
それは表現ではない。
表現とは鋭いナイフのようなものであり、
現実のつまらないノイズを切り裂くものである。
現実の反映とは真逆である。
だからビッグデータでは、
「平凡な、よくある表現と内容」は学習できても、
「新しい、面白い表現と内容」にはならない。
(斬新な表現だけなら可能だ。
さいころで言葉の組合せを変えて斬新にすることはすぐできる)
なぜアルファ碁は教師無し学習ができたのであろうか。
最初は定石を覚えて、
その後、教師無しで、どうやって進化したのか。
「自分対自分」をやり続けたのだ。
自分対自分なら、勝ったほうが教師だ。
新しい手の記憶は、
かつて勝ったときに使ったものだ。
これは、将棋や囲碁がゲームだから可能なことだ。
ある脚本と脚本を対決させて、
どちらが優れているか、勝敗を決める客観的な方法はない。
審査員が決めるしかない。
では、審査員がコンテストを延々と繰り返し、
それに優勝するように学習すればよいか。
それもダメで、
結局はその審査員が喜ぶものを学習するだけだろう。
〇〇賞の傾向を研究して、
そこを突破するだけのものしか作らない、
ということになってしまうだろう。
つまり。
創作とは、「新しい基準をつくること」だ。
おれはこれが新しく面白いと思う、
おれはこれが新しく美しいと思う、
おれはこれが新しく琴線に触れると思う、
そういう基準ごと新しく作ることをいう。
その作品以前と以後で、
なにかの評価をするときに、
決定的に変化が及んでしまうことを、
金字塔というのではないだろうか。
わかりやすい例は、
宮崎駿以前と以後で、
「空中で飛ぶ表現と意味」はまるで変ってしまったはずだ。
スターウォーズ以前と以後で、
光線剣の表現と意味はまるで変ってしまったはずだ。
ガンダム以前と以後で、
人型兵器の戦争投入と、認識の拡大について、
表現と意味はまるで変ってしまったはずだ。
こういうものをつくれるかどうかが、
創作である。
そしてそれは、
教師から学ぶことはできない。
どこかで見たようなものはビッグデータから、
あるいは、その教師から学ぶことが出来る。
だからプログラムピクチャーまでは作れると思う。
どういう金字塔をどこにどうやって立てるかは、
人間にしかしえないことだろう。
(ビッグデータから「あそこに空きがある」、
と予言することまでは可能かもしれないが、
そんなの創作をする人間なら、感があって当然だ)
人工知能を学ぶことは、
実は、
「人工知能にできて人間にできないことはなにか」
「人間にできて人工知能にできないことはなにか」
を学び、
機械にはできて、人間にしかできないことを、
切り分けていく行為である。
もはや哲学に近いジャンルで、大学時代は楽しかった。
そしておそらくは、
ストーリーの創作こそが、
もっとも機械にできない、謎で神聖な部分じゃないかなあ、
と僕は思っていて、
だから京大での人工知能研究にあきて、
東京でプロになろうとしたのだ。
そしたら時代が追っかけてきていて、ちょっと面白くなっている。
2018年07月11日
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