2018年07月11日

人工知能はストーリーを書けるか

無理だろう、しかし素人を騙すレベルなら可能かもしれない。

その脚本で映画をつくる場合、
たいして面白くはないが、ある程度のヒットはいくかもしれない。
つまり、プログラムピクチャーはつくれるかもしれない。


文章という形式の構造上の問題については、
以前議論した。

文章には表現と内容のふたつの層があり、
同じ内容でも別々の表現があり得る。

また同一の表現でも文脈が異なれば、全く違う意味になることがある。
同一の表現を複数の意味を持たせることが出来る。
また同じ意味を、
同一の表現を使わず、別の表現にしてリフレインすることがある。

このような、
表現と内容の一意性が失われている、
数学の記号とは全く違うものが文章であり、物語だ。


現在主流のディープラーニングは、
ビッグデータから表現を学習し、
「こういうときはこういう表現をするものだ」
ということまではある程度学ぶことができる。

だから人工知能の書く言葉は、
ある程度までは小説的、脚本的な言葉になるだろう。
しかしそれができるのは、
「表現まで」である。

粋なセリフ、面白げなシチュエーション、
変わった組み合わせなどは作れるかもしれない。

しかし、それらが連なったときにどういう内容になっていって、
それらの流れや結果が、どういう意味をもたらすかについては、
学習することができない。

もっとも、
内容と表現の両方を教え込み、
流れについても教えることができれば、
学習の可能性はゼロではない。

で、ここからが今回の本題。


誰が教える? ということ。



表現と内容に関することで、
ルールはない。
だから誰かが教えなくてはならない。
つまりは、その教える人の、
センス次第になってしまう、ということを言おうとしている。

機械学習には、原理上教師が必要である。
将棋や囲碁なら「定石」「過去の棋譜」である。
それは数学的にまとめられているから、
人工知能は学習可能なのだ。
つまり、
数学的に、
内容と表現について、誰かがまとめられれば、
学習できるかもしれない。

そんなこと、人類の誰もなしえていない。
僕が延々ここに書いている事だって、
脚本の理論の一部でしかない。

つまり、将棋や囲碁は、
ディープラーニングにとって学習しやすい対象なのである。

いや、数学的なデータでなくても、
テキストデータのようなものを読み込んでいけばいけるのではないか。
じゃ、誰がそれを、「よい」「わるい」と教えるのか?ということである。

人間の場合だって、
「師匠筋」という考え方がある。
その師匠について学んだ場合、
その師匠がどういうものをどう表現してきたかに、
影響を受けるということだ。
つまりディープラーニングですら、
「誰かの師匠筋に所属する」でしかないだろう。

複数の師匠に師事することは可能か。
不可能ではないが、
それぞれの師匠がいうことは別々だろう。
その矛盾を弟子がどう考えるかが表現になってくるが、それは学習ではない。
そもそも、表現理論というのは、
人によって異なる。同じ理論ではない。

ディープラーニングが将棋や囲碁を学習できたのは、
明確によい/わるいを決められたからだ。
すなわち勝ち/負けである。
表現というものは、
勝ち/負けを明確に評価できない。

いや、人工知能が学習しやすいように、
勝ち負けを教える教師がいればよい。
しかし、それはまた師匠筋の問題をはらみ、以下ループ。
その人の傾向を覚えるに過ぎないだけだ。

では、それをビッグデータで教えるといいのだろうか。

アメリカの人工知能がツイッターをもとに学習したら、
ツイッターに一番出ている話題、
911陰謀論とヒトラー礼賛を覚えたそうだ。

つまり学習とは統計の反映であり、
ビッグデータを学習するとは、
ノイズの統計を反映させることである。
それは表現ではない。

表現とは鋭いナイフのようなものであり、
現実のつまらないノイズを切り裂くものである。
現実の反映とは真逆である。

だからビッグデータでは、
「平凡な、よくある表現と内容」は学習できても、
「新しい、面白い表現と内容」にはならない。
(斬新な表現だけなら可能だ。
さいころで言葉の組合せを変えて斬新にすることはすぐできる)


なぜアルファ碁は教師無し学習ができたのであろうか。
最初は定石を覚えて、
その後、教師無しで、どうやって進化したのか。
「自分対自分」をやり続けたのだ。

自分対自分なら、勝ったほうが教師だ。
新しい手の記憶は、
かつて勝ったときに使ったものだ。
これは、将棋や囲碁がゲームだから可能なことだ。

ある脚本と脚本を対決させて、
どちらが優れているか、勝敗を決める客観的な方法はない。

審査員が決めるしかない。

では、審査員がコンテストを延々と繰り返し、
それに優勝するように学習すればよいか。
それもダメで、
結局はその審査員が喜ぶものを学習するだけだろう。
〇〇賞の傾向を研究して、
そこを突破するだけのものしか作らない、
ということになってしまうだろう。



つまり。


創作とは、「新しい基準をつくること」だ。

おれはこれが新しく面白いと思う、
おれはこれが新しく美しいと思う、
おれはこれが新しく琴線に触れると思う、
そういう基準ごと新しく作ることをいう。


その作品以前と以後で、
なにかの評価をするときに、
決定的に変化が及んでしまうことを、
金字塔というのではないだろうか。

わかりやすい例は、
宮崎駿以前と以後で、
「空中で飛ぶ表現と意味」はまるで変ってしまったはずだ。

スターウォーズ以前と以後で、
光線剣の表現と意味はまるで変ってしまったはずだ。
ガンダム以前と以後で、
人型兵器の戦争投入と、認識の拡大について、
表現と意味はまるで変ってしまったはずだ。


こういうものをつくれるかどうかが、
創作である。



そしてそれは、
教師から学ぶことはできない。



どこかで見たようなものはビッグデータから、
あるいは、その教師から学ぶことが出来る。
だからプログラムピクチャーまでは作れると思う。

どういう金字塔をどこにどうやって立てるかは、
人間にしかしえないことだろう。
(ビッグデータから「あそこに空きがある」、
と予言することまでは可能かもしれないが、
そんなの創作をする人間なら、感があって当然だ)


人工知能を学ぶことは、
実は、
「人工知能にできて人間にできないことはなにか」
「人間にできて人工知能にできないことはなにか」
を学び、
機械にはできて、人間にしかできないことを、
切り分けていく行為である。
もはや哲学に近いジャンルで、大学時代は楽しかった。

そしておそらくは、
ストーリーの創作こそが、
もっとも機械にできない、謎で神聖な部分じゃないかなあ、
と僕は思っていて、
だから京大での人工知能研究にあきて、
東京でプロになろうとしたのだ。

そしたら時代が追っかけてきていて、ちょっと面白くなっている。
posted by おおおかとしひこ at 15:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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