2018年07月12日

先手と後手

動機や行動を描くのが物語であるが、
それはいきなりやってくるのだろうか。

たいていはそうではない。


現実ではいきなり行動をする人はあまりいない。
思いたって、思い詰めて行動する人もいるけど、
それは少数派だ。

ほとんどの人は胸に何かを秘めた状態で生きていて、
何かの「きっかけ」が来るまで温存しているものだ。


さて。

ある動機や目的があり、
それを達しようとして、
おもむろに行動するとき、
それを先手行動と呼ぶことにする。

飯が食いたい、寝たい、セックスしたい、生き残りたい、
などの生理的欲求は、先手でも不思議ではない。
動物として当然である。
あるいは、感情にまかせた短期的な行動はすべてそうかもしれない。
怒り、恨み、突発的な感情などだ。

脈絡もなく先手で行動することは、
ないことはない。

積極的な人間ならそれをすることもあり、
積極的とは深く考えず、
とにかく行動に起こしてその波紋の中を渡りながら、
行動や目的を変化させていくことでもある。
アドリブの綱渡りのようなものだ。

これ自体に善悪はない。

そうする人もいるし、そうしない人もいるし、
そうじゃない人がそうするときもあるし、
いつもそうする人がそうしないときもある。
考えている間にチャンスが逃げることもあるから、
とりあえず手付けだけする人もいる。
あるいは牽制だけする人もいる。


主人公は先手を取るだろうか?

物語の中で、トップシーンに、
「よし、こういうことをしよう」
と思いたって行動をはじめ、
それが最終的にどうなったのか、
までを描くことはめったにない。

なぜなら、突然そんなこと言われても、
感情移入するまでに至らないからである。


たいてい、主人公は後手を取る。

主人公にはやりたいことや夢がある。
あるいは、つらい現実があり、それを上手に改変したい。
あるいは、弱点があり、それを克服したい。
特定のことをしたいのだが、
機会がない。
まずそこで共感を取る。たいてい映画開始10分以内にである。

まだそこで感情移入する必要はない。
あくまで説明であり、わかるわ、というレベルでよい。

次にきっかけが起こる。
それは日常に起こった、ちいさな事件だ。

それはたいてい動機や目的と一見関係ないことで、
主人公はそれに巻き込まれる形になる。
それで、行動せざるを得ないことになる。
後手行動だ。

(逃げる、という消極的行動をとってもよい。
たいてい逃げた先にも問題の続きがあり、
結局はそれにどうにかしないといけない事態なのだが)

で、それにかかわっているうちに、
自分の秘めた動機や目的が、
当初と違う形ではあるものの、
実現するのではないか、
と気付く瞬間がある。

本人が気づかなくてもよくて、観客が分ればよい。
本人は無意識なのに、その行動をするからには、
そういうことなんだろうな、
と理解できればよい。

そうして、
主人公は、
主体的に、先手をとりはじめる。
最終目的が見えたからだ。


映画という物語は、
たいていこのような、
最初は後手だったものが、
次第に先手を取り始めていく様を描く。
それは開始30分である。

おおむね30分経つと、
主人公は自分の行動に責任を持ち、
最終目標にむけて、舵を取る覚悟をする。
(たいていは何らかの宣言をする)

それを第一ターニングポイントということは、
もう皆さんご存知であろう。

以後は、主人公がどのように先手を取ったり、
先手を取られて後手を引いてしまい、
それを取り返すか、
ということを描く。

それはたいていコンフリクトという形で示される。


いきなり先手を取ることは、
リアリティがあまりない。

だから後手で、ものごとにリアクションしているうちに、
いつのまにか先手を取っている、
ということが、
主人公の条件ですらあるような気がしている。

ここで日本人の消極的な性格が顔をのぞかせると、
消極的で流されやすく、他人の意見で自信をなくしてしまい、
自我を引っ込めがちになってしまう。

しかしここで動機を改めて確認すれば、
そんなこといってられなくなり、
先手行動に出ざるを得ない気持ちがわいてくる。

それが感情移入の正体だ。


行動とは、リア充ウェーイとか、
陽気でアメリカンな野郎どもがオラオラオラ、
とかばかりを意味しているのではない。

たとえ引っ込み思案で消極的な人物だったとしても、
何割り増しかで行動するべき時があり、
行動しなければならない時があり、
他人が止めたとしてもやる時がある。

その人生で何回かしかない特別な瞬間の、
確変の入った、
一連の行動を追うことも映画であり、
そしてそのほうが多いと思う。


先手を取って行動するのは、
なかなか難しい。

積極的で行動的な人は、あまり脚本を書かないだろう。
後手ベースで考えるなら、
どういう先手が起こるのか、
誰かになにかをされるのか、
偶然が起きて何かすごいことになるのか、
色々なことがかみ合ってそういう状態に至るのか、
考えなければならない。

ちなみに映画の中で使える「偶然」は、
この初手だけだということを覚えておくとよい。

先手、後手という言葉で暗示しているように、
映画の中で偶然の進展や解決はない。
すべては因果や論理での進展だ。

ストーリーとは論理だ。
それを偶然で解決してはいけない(デウスエクスマキナ)。

感情移入が台無しになってしまうからである。
(逆に、台無しにして物語を破壊したいときは、
偶然ですごいことが起こる破綻を描くとよい)

だから映画の最初に、
たいてい偶然が起こる。

ちょっとした奇跡のような瞬間
(美女と隣り合わせになり偶然話題が合う「ナナ」とか、
誰かに間違えられて追われる羽目になる「北北西に進路を取れ」など)や、
宝くじに当たるような無茶ぶりまで。

主人公はここから後手で、
何かを行動し始めることになることがとても多い。



もちろんあなたが積極的先手で、
面白い物語が書けるなら挑戦してみてもよい。

あるいは、型やぶりなストーリーが書きたいなら、
先手を取るところから始めるのはよいアイデアだ。


それはどちらでもよくて、
感情移入ができて、最後にカタルシスがある、
面白い話ならそれでよい。
posted by おおおかとしひこ at 17:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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