今度は脚本論のほうでタイピングと手書きについて、
もう少し深く突っ込んで考えよう。
これだけさんざんタイピングのことを書いておきながら、
僕は第一稿は手書き推奨派である。
なんでだ?
体から搾り出るセリフは、手書きのほうがよいと思う。
頭で考えるセリフは、タイピングのほうがよいと思う。
手書きのほうが、現実の抵抗に逆らって書かないといけない。
だから身体で書く感じになる。
それが、セリフを行動の一部にすると思う。
タイピングは身体性が虚弱だ。
電子の抵抗とキーの押下圧しかない。
なので、より思考純粋になりやすいと思う。
感想を述べたり、考えを整理するのには、
タイピングがむいている。
脳の中の出来事だからだ。
芝居の生きたセリフを書くのには、
手書きがむいている。
そこにある現実の出来事だからだ。
(現実じゃなくて仮想なんだけど、
書くものにとっては現実のようにそこにあるものだ)
逆に、
タイピングで書くセリフは、
頭で考えた、そんなことそんなときに言わないという、
「都合のセリフ」になるような感じがする。
逆に手書きで書いた分析は、
思考が奥底に至る前に、
身体が疲れたので途中で届かなかった、
純粋な思考の足りないものになってしまう感じがする。
つまり。
セリフは頭で書いちゃだめだ。
セリフはそこにその人といる感覚で書くべきであり、
状況に流されていくらでも変化しうる。
三人称であることを忘れてはならない。
頭で書いたセリフは、一人称になりがち。
相手の存在や文脈を忘れた、
自分勝手で言ったら満足してしまう、
コミュニケーション拒否のものになってしまいがち。
逆にそういう効果が欲しければ、
手書きとタイピングとを逆に使うとよいだろう。
これだけタイピング言うても、
創作の一番大事なところはキーボードには譲らない。
タイピングの限界はそこにあると僕は考えている。
じゃ、結局これだけ色々やってきたタイピングの用途って?
このブログを書くことには、ずいぶん役に立っているな。
企画書を書いたり、プロットを書くのに、
タイピングの「頭で考えた感じ」を出すのは最高に相性がよい。
あとは清書用かな。
とりあえず手書きを写すのに、
薙刀式以上に速いシステムを僕はしらない。
もう少し薙刀式が安定して、数年使って、
無意識レベルで薙刀式が僕の手の一部になったら、
考えは変わるかもしれない。
今のところ、タイピングは思考をぐるぐる回すのに、とても相性が良い。
また単純に、使う手が一本と二本の違いだけかもしれない。
手書きは、「身ひとつ」で書くから、
行動に近いのかもだ。
タイピングは両手で書いているから、
「現実を操作している」感じになるのかもしれない。
体当たりと遠隔操作の違いに似ている。
右手一本でタイピングすると、
身ひとつでの体当たりに近いかもしれない。
Qwertyローマ字のころの僕のタイピングはそれに近かった。
しかしタイピングの常識からすると、それは恐ろしく効率が悪い。
つまり僕がタイピングが苦手だったのは、
身ひとつで書くタイプの作家だったからだ。
生き生きしたリアルなセリフは、
身体からしか出ない。
動かすのは右手一本だが、
全身のセンサーがその場の空気を空想的に感じている。
逆にいうと、
頭でしか考えずに発言する(書き込む)独り言は、
タイピングで書いた方がリアルかもしれない。
タイピングのほうが脳と両手と文字だけになっていて視野が狭く、
手書きのほうが皮膚や全身の空想力を動員しやすい。
タイピングのほうが内容に時間性がなく、
手書きのほうがリアルタイムに進む内容が書きやすい。
タイピングは時計通りに進まない、
時間を止めて妄想や思考を広げてゆく小説の地の文に向いていて、
手書きはリアルタイムに進む時間軸でどう動くかをする、
脚本のセリフに向いているように思う。
小説家が脚本家に転身しても成功しない理由のひとつに、
このリアルタイムで動く身体性を獲得していないことがあるのでは、と思った。
逆にいうと、脚本は身体性で書くのである。
一種動物的な感じだ。
だって芝居のホンなんだから。
2018年07月14日
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