2018年07月15日

一幕が大抵長くなる

久しぶりに15分用のオリジナルを書いたんだけど、
やっぱり一幕が1分ほど長く、
第一ターニングポイントが6分に来ていたので、
一幕を削ることを考え始めている。


何故一幕はこんなにも長くなってしまうのか?
それは、
「自分がその作品に慣れるまで」の時間ではないか?


観客が作品に慣れる時間と、
作者が作品に慣れる時間は、
全く違う時間軸が流れている。

作者が作品に慣れる時間はいつだろう。
一幕の終わりで、「一通りの世界」に慣れて、
二幕からミッドポイントあたりまでで、
ようやく「風呂敷を広げてキャラに慣れて」、
くるのではないか?

つまり、
作者が世界に慣れて自在にコントロールできるようになるのは、
後半戦だとぼくは思う。

何日か宿に滞在するような時、
その部屋に慣れてきたのがようやく最終日、
みたいな経験に似ている。

最初はなにもかも新しく、
それを把握するので精一杯で、
そうこうしているうちに半ばを過ぎて、
ストーリーをまとめにかからないといけなくなる、
そんな感覚ではないだろうか。

キャラクターが勝手に動き出すのも、
後半戦になってからだろう。
作者が世界を自由に泳げるようになって、
ようやくだ。

世界に慣れるということはどういうことか?
「初めて触るものがないとき」かも知れない。

一回書いたところは慣れてて、
2回目3回目に書くときは、
すっかり家みたいになっているかも知れない。

だから、
一幕は、理想から長くなってしまうのだ。

理想というのは、
「観客のリズム」のことである。


観客は、
「作者はその世界の全てに慣れてて、
支配しきっている」という前提で鑑賞をはじめる。

まさか「初めて泊まる宿のように、
あちこちを開けては閉めて確認している最中」
だなんて思ってもいない。

さっさと魅惑的な世界へ連れてってほしい。

その差だ。


観客が世界に慣れるのは、
おおむね15分、一幕の半分程度だとぼくは思う。

それがどういうジャンルの話か、
コメディなのかシリアスなのか、
大袈裟なのか繊細なやつなのか、
空気感に慣れてきて、
鑑賞の方向性を決めるのは、
高々10分程度だとぼくは思う。

そんな部分で、
作者がまごまごと扉を開けたり閉めたりしていてはいけない。

必要な時にしか扉を開け閉めせず、
むしろわざと閉じておいて、
この先には闇があると脅して、
開くのを引っ張らなければならない。

探り探り書いている場合ではないのだ、本来。



しかしながら、初めて作者も書くのだから、
どうしても一幕は齟齬が生じる、
というわけなのだ。

だから、リライトは必須なのである。


書き終えて、世界の後半に慣れた人として、
もう一回、
「この世界に没入するにはどうすれば面白いか?」
を考え、
余計なノイズを切り、
さっさと本題に入れるような書き方にするべきなのだ。
作中一回も開けない扉など書く必要はないのである。

観客に見せるものの内容と順番を練ること。
どうやったら面白く巻き込めるかを考えること。

そうすれば、
一幕をタラタラやってる場合じゃないとわかるはずだ。


あなたがその世界に慣れていくのではない。
観客がその世界に慣れて、自在に想像で遊べるようになるには、
どうすれば良いか考えること。
そのために一幕の前半という役割がある。

一般則で考えると、
「必要なものだけをたっぷり描き、あとは省け」
ができるかどうかだね。
posted by おおおかとしひこ at 09:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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