言ってしまえば楽屋落ちだ。
ネタバレなく、
リアリティとは何かについて語ってみよう。
私たちは冒頭の34分のワンカット、
「ゾンビ映画を撮る男」を目撃することになる。
「ゾンビ映画を撮っていたら、
本当にゾンビに襲われ、
リアリティショーの中ショウマストゴウオン状態になり、
なんとかオチがつく」
というものだ。
しかし、「それを作る男」
というさらに外の視点、それが本筋だが、
を導入することで、
この映画は二重の構造を持つようになる。
二つの世界がある以上、
それは対比が必ず行われることになり、
それが抱腹絶倒なコメディとなるのが、
この映画の基本構造だ。
で、
「映画を撮る男」が主人公で、
モチーフが「色々ある現場」だとしたら、
オチはひとつしかない。
「苦難を乗り越えてついに傑作をものにする」だ。
つまり、
このネタを選んだ時点で、
「映画づくりは素晴らしい」
というテーマに帰着するしかないのだ。
それが内輪受けでしかない。
もっとも、
「映画づくりは素晴らしい!」などと、
声高にテーマを叫ぶわけではなく、
そこここにある断片を繋ぎ合わせれば、
ひとつのピースが浮かび上がってくるようには工夫されている。
だけどね。
それは映画なのかね?
私たち観客は、
映画の中の世界を架空の世界だと信じて、
その世界の住人にひとときなる。
しかし、
「「ゾンビ映画を撮る男」を撮る男」という構造から、
容易に想像される通りに、
「この映画全体を作る男」の存在をどうしても感じてしまう。
最初にそれを感じたのは、
「カメラに付いた血糊を拭き取る手」だった。
AVにおける潮吹きからのレンズを拭う手には、
結構興奮するくせに、
この手で一気に冷めた。
それは、「作り手を感じた」からだ。
AVは作り事ではない。
多少の大袈裟はありつつも、
基本はセックスしていると考えている。
だから、レンズを拭う手は、
「それが本当に行われていることであり、
だからレンズを拭う手も存在する」ことに、
興奮がある。
「ほんものだ」という興奮だ。
ところがこの映画の場合、
作り手がいることを感じてしまうのは、
180度の逆効果なのだ。
「イマジナリーライン」という言葉がある。
元は演劇の言葉だ。
舞台と客席の間に引かれる一本の線だ。
ここから舞台、ここから客席、を示し、
客はここから入ってはいけないし、
舞台はここから外に出ないという、
一種の紳士協定である。
だからこそ、舞台で起こることを、
本当は人には見せないものを、
観客は覗き見していいですよ、
という約束なのである。
しかし私たちは、
演劇は演技であることを知っている。
じゃあ演劇は嘘か。
違う。
そこで演じられているストーリーが、
本当に現実を上手に抜き取り、
上手に「酔える架空」になっていると、
我々は知っているからこそ、
舞台はいっときだけ本当だと感じるのだ。
役者はいい演技をするなあ、
なんて時々冷めたりするけれど、
ストーリーがほんものであればあるほど、
そんな余計なことはどうでもよくなっていく。
そして、
余計なものはどうでもよくするのが、
脚本の仕事である。
この映画は、それを真逆から見たものだ。
カメラが回っているときは、
必ず作り手がいるのだ、
という前提で見なければならない。
(ご丁寧にもエンドロールで、おっとこれはネタバレか)
私たち観客は、
「誰か他の人によって撮られたもの」なんて見たくない。
「その事件の第一目撃者になりたい」のだ。
だから、カメラの存在、作り手の存在を感じさせることは、
タブーだ。
(たとえばカメラ目線)
整理しよう。
フィクションとは、カメラの存在を消すことで、
私たちを架空の世界の第一目撃者にする。
ドキュメンタリーとは、
カメラの存在があることで、
私たちの知り得ない世界があることを逆にリアルに感じさせる。
リアリティが逆なのだ。
AVの潮吹きを拭く手はリアリティだ。
ゾンビの血を拭く手はリアリティを殺ぐ。
AVはイマジナリーラインを存在させることで、
その向こう側はリアルであると言う。
では、
彼らが撮っているものはなにか?
ゾンビ映画という、「映画そのもの」だ。
だから、
この物語は、「映画をつくることは素晴らしい」
にしかテーマが帰着しない。
つまらないね。
「映画をつくることが素晴らしい」には、
「ニューシネマパラダイス」という傑作がある。
これを超えない限り、
映画に関する映画など認めない。
ちなみに、
ドキュメンタリーの癖に、
「フィクションをつくることは素晴らしい」
というテーマに偶然帰着した(かどうかは不明)
AVに、希志あいの主演「スキャンダル」がある。
過去記事で絶賛したので読んでない方はどうぞ。
私たちはイマジナリーラインの向う側を作る人だ。
そこに土足で入ってはならない。
それが架空の癖に真実だと信じるからである。
この映画はそこに何重にも踏み込み、
そのタブーを犯す実験という危険のかわりに、
なんの果実も得られなかった、
ただの駄作だ。
笑ったよ。でもそれだけだ。
アンジャッシュのコントの方が、
「コント」と称しているだけ清々しい。
そうまでしてつくる映画の、何がすばらしいのか?
そこに踏み込んでいない段階で、
映画の映画としては最低の出来だ。
これは先日切り落とした「エキストランド」
も同じだ。奇しくも同じ箱だった。
この映画のスタッフも、かの映画のスタッフも、
映画が本当に素晴らしいなんて、
何一つ信じていないんじゃないの?
適切な映画評をよみました。
ありがとうございました。
コレって楽屋落ちだよな、それをやるんだ。
それがウケるんだ?
それ以上でも以下でもない。
とにかく読ませたもらい、安心しました。
エンドロールで吐き気がしました。
成り立ちが「演劇のワークショップで映画を作ろう」
なのはわかってはいても、
そのライン上で留まっていて、
その先へ行けていないと思います。
しかし人には、
「自分より劣っている者が頑張るのを面白がる」
という残酷な欲望もあります。
ローマ時代から変わっていません。
注意するべきところです。
今日の記事に詳しいのでおひまならどうぞ。
「〇〇は聖書の引用なんですよ!(終わり)」「あのシーンはあの名作映画のオマージュ!(終わり)」みたいなのは正直ウンザリ。パロディ・アニメの元ネタ解説かーい。
評論家を評論する人がいてもいいと思います。
それも「あの評論はあれの引用である」だったりして。笑
文系の研究に嫌気がさして理系に行ったのも、
「こういう仕組みになっている」が好きだったからかもしれません。