2018年07月15日

リアリティとはなにか(「カメラを止めるな!」評)

言ってしまえば楽屋落ちだ。

ネタバレなく、
リアリティとは何かについて語ってみよう。




私たちは冒頭の34分のワンカット、
「ゾンビ映画を撮る男」を目撃することになる。
「ゾンビ映画を撮っていたら、
本当にゾンビに襲われ、
リアリティショーの中ショウマストゴウオン状態になり、
なんとかオチがつく」
というものだ。

しかし、「それを作る男」
というさらに外の視点、それが本筋だが、
を導入することで、
この映画は二重の構造を持つようになる。

二つの世界がある以上、
それは対比が必ず行われることになり、
それが抱腹絶倒なコメディとなるのが、
この映画の基本構造だ。

で、
「映画を撮る男」が主人公で、
モチーフが「色々ある現場」だとしたら、
オチはひとつしかない。
「苦難を乗り越えてついに傑作をものにする」だ。
つまり、
このネタを選んだ時点で、
「映画づくりは素晴らしい」
というテーマに帰着するしかないのだ。

それが内輪受けでしかない。


もっとも、
「映画づくりは素晴らしい!」などと、
声高にテーマを叫ぶわけではなく、
そこここにある断片を繋ぎ合わせれば、
ひとつのピースが浮かび上がってくるようには工夫されている。

だけどね。

それは映画なのかね?


私たち観客は、
映画の中の世界を架空の世界だと信じて、
その世界の住人にひとときなる。

しかし、
「「ゾンビ映画を撮る男」を撮る男」という構造から、
容易に想像される通りに、
「この映画全体を作る男」の存在をどうしても感じてしまう。

最初にそれを感じたのは、
「カメラに付いた血糊を拭き取る手」だった。
AVにおける潮吹きからのレンズを拭う手には、
結構興奮するくせに、
この手で一気に冷めた。

それは、「作り手を感じた」からだ。

AVは作り事ではない。
多少の大袈裟はありつつも、
基本はセックスしていると考えている。
だから、レンズを拭う手は、
「それが本当に行われていることであり、
だからレンズを拭う手も存在する」ことに、
興奮がある。
「ほんものだ」という興奮だ。

ところがこの映画の場合、
作り手がいることを感じてしまうのは、
180度の逆効果なのだ。


「イマジナリーライン」という言葉がある。
元は演劇の言葉だ。
舞台と客席の間に引かれる一本の線だ。
ここから舞台、ここから客席、を示し、
客はここから入ってはいけないし、
舞台はここから外に出ないという、
一種の紳士協定である。

だからこそ、舞台で起こることを、
本当は人には見せないものを、
観客は覗き見していいですよ、
という約束なのである。

しかし私たちは、
演劇は演技であることを知っている。
じゃあ演劇は嘘か。
違う。
そこで演じられているストーリーが、
本当に現実を上手に抜き取り、
上手に「酔える架空」になっていると、
我々は知っているからこそ、
舞台はいっときだけ本当だと感じるのだ。

役者はいい演技をするなあ、
なんて時々冷めたりするけれど、
ストーリーがほんものであればあるほど、
そんな余計なことはどうでもよくなっていく。

そして、
余計なものはどうでもよくするのが、
脚本の仕事である。



この映画は、それを真逆から見たものだ。

カメラが回っているときは、
必ず作り手がいるのだ、
という前提で見なければならない。
(ご丁寧にもエンドロールで、おっとこれはネタバレか)

私たち観客は、
「誰か他の人によって撮られたもの」なんて見たくない。
「その事件の第一目撃者になりたい」のだ。

だから、カメラの存在、作り手の存在を感じさせることは、
タブーだ。
(たとえばカメラ目線)


整理しよう。

フィクションとは、カメラの存在を消すことで、
私たちを架空の世界の第一目撃者にする。

ドキュメンタリーとは、
カメラの存在があることで、
私たちの知り得ない世界があることを逆にリアルに感じさせる。


リアリティが逆なのだ。

AVの潮吹きを拭く手はリアリティだ。
ゾンビの血を拭く手はリアリティを殺ぐ。

AVはイマジナリーラインを存在させることで、
その向こう側はリアルであると言う。

では、
彼らが撮っているものはなにか?

ゾンビ映画という、「映画そのもの」だ。


だから、
この物語は、「映画をつくることは素晴らしい」
にしかテーマが帰着しない。


つまらないね。


「映画をつくることが素晴らしい」には、
「ニューシネマパラダイス」という傑作がある。

これを超えない限り、
映画に関する映画など認めない。


ちなみに、
ドキュメンタリーの癖に、
「フィクションをつくることは素晴らしい」
というテーマに偶然帰着した(かどうかは不明)
AVに、希志あいの主演「スキャンダル」がある。
過去記事で絶賛したので読んでない方はどうぞ。


私たちはイマジナリーラインの向う側を作る人だ。
そこに土足で入ってはならない。
それが架空の癖に真実だと信じるからである。

この映画はそこに何重にも踏み込み、
そのタブーを犯す実験という危険のかわりに、
なんの果実も得られなかった、
ただの駄作だ。

笑ったよ。でもそれだけだ。
アンジャッシュのコントの方が、
「コント」と称しているだけ清々しい。



そうまでしてつくる映画の、何がすばらしいのか?

そこに踏み込んでいない段階で、
映画の映画としては最低の出来だ。


これは先日切り落とした「エキストランド」
も同じだ。奇しくも同じ箱だった。
この映画のスタッフも、かの映画のスタッフも、
映画が本当に素晴らしいなんて、
何一つ信じていないんじゃないの?
posted by おおおかとしひこ at 20:43| Comment(7) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして
適切な映画評をよみました。
ありがとうございました。

コレって楽屋落ちだよな、それをやるんだ。
それがウケるんだ?

それ以上でも以下でもない。
とにかく読ませたもらい、安心しました。
Posted by mcguffin at 2018年08月20日 23:05
mcguffinさんコメントありがとうございます。

エンドロールで吐き気がしました。
成り立ちが「演劇のワークショップで映画を作ろう」
なのはわかってはいても、
そのライン上で留まっていて、
その先へ行けていないと思います。

しかし人には、
「自分より劣っている者が頑張るのを面白がる」
という残酷な欲望もあります。
ローマ時代から変わっていません。
注意するべきところです。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年08月20日 23:34
大岡様 既にご存知かと思いますが、この映画に盗作疑惑が急浮上しています。
Posted by すーざん at 2018年08月21日 15:56
すーざんさんコメントありがとうございます。

今日の記事に詳しいのでおひまならどうぞ。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年08月21日 17:07
大岡様 拝読しました。いつもながら、自分が想像した以上の掘り下げ恐れ入ります。日本映画界の構造にまで及んでしまうのが病理の根深さですね。ちなみにですが某芸能人が、小説の帯に一言コメントを寄せて30万円でした。一言で、私の月給以上を稼いでしまうのだから、たとえつまらなくとも、理解できずとも、思いっきりサービスしてしまうのも頷けます。
Posted by すーざん at 2018年08月21日 21:10
大岡さんの映画評はきちんと映画の作りに関して話してくれるのが好きです。「映画の中にどういうテクや構造があって、それがどう作用しているのか」というのをキチンと聞きたいのですが、そういう話をしてくれる人本当に少ないですよね。
「〇〇は聖書の引用なんですよ!(終わり)」「あのシーンはあの名作映画のオマージュ!(終わり)」みたいなのは正直ウンザリ。パロディ・アニメの元ネタ解説かーい。
Posted by ぴざ at 2018年08月23日 20:03
ぴざさんコメントありがとうございます。

評論家を評論する人がいてもいいと思います。
それも「あの評論はあれの引用である」だったりして。笑

文系の研究に嫌気がさして理系に行ったのも、
「こういう仕組みになっている」が好きだったからかもしれません。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年08月23日 21:18
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