ネタバレありで論評。
結局、この映画の「映画とは何か」というものの答えについて。
(ネタバレにつき改行)
ラストの切り返し、
父が幼子を肩車していることから読み取れること。
「映画はおもちゃだ」だろう。
一見感動の親子の和解に見せかけて、
クレーンが壊れたのをみんなの力でかわしたと見せかけて、
それが意味することは、
「このオモチャは最高に楽しいぜ」だ。
だから邦画はだめなんだ。
だって駄作だって映画の現場は楽しいってことなんだから。
映画の現場は楽しいだろ?
楽しいからギャラは安くてもいいよね?
楽しいから徹夜で体壊してもいいよね?
楽しいからヒットしなかったのでまたギャラ安くするけど?
に対して、「はい!」と目をキラキラさせるやつが、
プロフェッショナルの現場をズタズタにしたのだ。
勿論映画づくりは最高に楽しい。
最高のオモチャのひとつで、
チームで働くことは最高に楽しい。
だがそれと作品そのものとは関係がない。
結果と過程は全然関係がない。
和気藹々で最高に楽しくても、
駄作の時もあれば、
ピリピリの現場で喧嘩だらけだったとしても、
「嫌われ松子の一生」や、
「アイズワイドシャット」なんて傑作を生むときもある。
勿論笑いの絶えない現場で、
それぞれがそれぞれの持ち場で闘い、
最高の傑作を作った「風魔の小次郎」というケースもある。
それは、偶然なのか?
ただ一人以外にとっては偶然の可能性が高い。
台本を渡されずに現場に呼ばれる人もある。
仕事を断ったら次がこないという恐怖のために、
仕事を断らない人もいる。(フリーランスの恐怖だ)
だから、ただ一人以外は、
渡される台本はくじ引きのようなものだ。
その一人とは、台本を与える側、脚本家だ。
現在の邦画の現場は、
台本は渡されるだけで、
詰まらなくても止めることが出来ない。
「台本が詰まらないので断る」ことが出来るのは、
大物の役者だけだ。
あの中島哲也ですら「進撃の巨人」を降りたら、
二度と東宝に呼ばれなくなった。
呼ぶ側の論理はひとつだ。
「代わりはいくらでもいるんだ」だ。
「代わりのいない人」だけが、文句を言える。
カメラマンは断れない。
アシスタントはさらに断れない。
車両部や食事チームに至っては場所と時間しか伝えられない。
これはおかしい。
詰まらない台本は降りる。
詰まらないからスタッフが集まらない。
そうなるべきだ。
(脅し文句のムチとペアで、アメもある。
「この台本を、どれだけ君の才能でよく出来るか、
見せて欲しいんだ」だ。それで乗ってしまうんだよね。
才能を発揮できるチャンスだが、予算はないとね)
それが、
楽しいオモチャだからという理由で、
安くこき使われ、
あげく駄作の量産を繰り返しているのだぞ?
それがプロフェッショナルだろうか?
スタッフには夢がある。
いつか名作に携わりたい。
死んでも残る作品に自分の名前をクレジットしたい。
俺はこんな名作を作ったんだぜ、
と死ぬときに言いたいし、
言わなくてもみんなが知ってるようになりたい。
しかし、
渡される台本渡される台本、
カスのようなものばかりで、
それでもニコニコしながら毎日を送る。
そうやって、体を壊して去って行く。
いつかこの才能が認められるまで、と思ってたけれど、
仕事に必要なのは、(先天的)体力でしかなかった、
という世界だ。
おかしなことだ。
才能のぶつかり合う漫画みたいな世界では、
現在の邦画の現場はない。
奴隷労働でしかない。
だからせめて楽しくやろうぜ、
味噌汁つけてさ、
というやり方が、負のスパイラルを安定していることについて、
以前書いた。
味噌汁つけても台本は良くならない。
詰まらない台本にノーと言えないと、
この風潮はそのままだ。
で。
「ワンカットゾンビ」は面白かったのか?
圧巻ではあった。
圧巻というのはガワの話だ。テクニックとか大変さだからだ。
ストーリーそのもの、
「封印を解いて彼女が女王になった」
というB級ストーリーの、
何が面白いのか、
ということなんだよ。
そんなもののために、
オモチャのように楽しいね!
って思ってるのは、
バカでしかない。
いい大人がこんなもののために頑張るのは、
やめときなさい、
ということだ。
こんなクソみたいな台本に、
必死にならなくてもいいじゃないか。
あのオカッパプロデューサーみただろう?
「うまいこといっやん」だぜ?
(腹立つ感じは実にうまいが、
それは映画外の文脈を強く感じさせるという意味において、
カメラレンズを拭う手と同じ効果にしかなっていない)
ちっともうまくいってない。
冒頭34分のゾンビ映画は、
ちっとも面白くなかっただろう?
映画は楽しいオモチャだ、という主張は、
つまりは洗脳装置だ。
オウムと何が違うのだ。
目を覚ませ。
詰まらないものは詰まらないと言え。
面白いものは拍手をし、絶賛せよ。
それだけが、クソ台本を淘汰する。
興行の惨敗の反省会などやらない。
「主役が数字を持ってなかった」ばかりだ。
ホンが詰まらなかったからで、
こうすればよくなった、
という反省会をしていないからだ。
映画の骨格はホンであり、
心を震わせるテーマであり、
最終的にはそこにどれだけ肉薄できたかだ。
映画づくりをオモチャのようで楽しいなんて言ってるやつは、
アマチュアでしかない。
映画に携わるプロフェッショナルほど、
この作品は否定する。
2018年07月16日
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