2018年07月16日

作品とは何か(「カメラを止めるな!」評3)

ネタバレありで論評。

結局、この映画の「映画とは何か」というものの答えについて。


(ネタバレにつき改行)











ラストの切り返し、
父が幼子を肩車していることから読み取れること。

「映画はおもちゃだ」だろう。


一見感動の親子の和解に見せかけて、
クレーンが壊れたのをみんなの力でかわしたと見せかけて、
それが意味することは、
「このオモチャは最高に楽しいぜ」だ。


だから邦画はだめなんだ。


だって駄作だって映画の現場は楽しいってことなんだから。

映画の現場は楽しいだろ?
楽しいからギャラは安くてもいいよね?
楽しいから徹夜で体壊してもいいよね?
楽しいからヒットしなかったのでまたギャラ安くするけど?

に対して、「はい!」と目をキラキラさせるやつが、
プロフェッショナルの現場をズタズタにしたのだ。

勿論映画づくりは最高に楽しい。
最高のオモチャのひとつで、
チームで働くことは最高に楽しい。

だがそれと作品そのものとは関係がない。


結果と過程は全然関係がない。


和気藹々で最高に楽しくても、
駄作の時もあれば、
ピリピリの現場で喧嘩だらけだったとしても、
「嫌われ松子の一生」や、
「アイズワイドシャット」なんて傑作を生むときもある。

勿論笑いの絶えない現場で、
それぞれがそれぞれの持ち場で闘い、
最高の傑作を作った「風魔の小次郎」というケースもある。

それは、偶然なのか?

ただ一人以外にとっては偶然の可能性が高い。

台本を渡されずに現場に呼ばれる人もある。
仕事を断ったら次がこないという恐怖のために、
仕事を断らない人もいる。(フリーランスの恐怖だ)

だから、ただ一人以外は、
渡される台本はくじ引きのようなものだ。

その一人とは、台本を与える側、脚本家だ。



現在の邦画の現場は、
台本は渡されるだけで、
詰まらなくても止めることが出来ない。

「台本が詰まらないので断る」ことが出来るのは、
大物の役者だけだ。
あの中島哲也ですら「進撃の巨人」を降りたら、
二度と東宝に呼ばれなくなった。

呼ぶ側の論理はひとつだ。
「代わりはいくらでもいるんだ」だ。
「代わりのいない人」だけが、文句を言える。
カメラマンは断れない。
アシスタントはさらに断れない。
車両部や食事チームに至っては場所と時間しか伝えられない。

これはおかしい。

詰まらない台本は降りる。
詰まらないからスタッフが集まらない。

そうなるべきだ。


(脅し文句のムチとペアで、アメもある。
「この台本を、どれだけ君の才能でよく出来るか、
見せて欲しいんだ」だ。それで乗ってしまうんだよね。
才能を発揮できるチャンスだが、予算はないとね)


それが、
楽しいオモチャだからという理由で、
安くこき使われ、
あげく駄作の量産を繰り返しているのだぞ?

それがプロフェッショナルだろうか?


スタッフには夢がある。

いつか名作に携わりたい。
死んでも残る作品に自分の名前をクレジットしたい。
俺はこんな名作を作ったんだぜ、
と死ぬときに言いたいし、
言わなくてもみんなが知ってるようになりたい。
しかし、
渡される台本渡される台本、
カスのようなものばかりで、
それでもニコニコしながら毎日を送る。

そうやって、体を壊して去って行く。

いつかこの才能が認められるまで、と思ってたけれど、
仕事に必要なのは、(先天的)体力でしかなかった、
という世界だ。


おかしなことだ。
才能のぶつかり合う漫画みたいな世界では、
現在の邦画の現場はない。

奴隷労働でしかない。


だからせめて楽しくやろうぜ、
味噌汁つけてさ、
というやり方が、負のスパイラルを安定していることについて、
以前書いた。

味噌汁つけても台本は良くならない。

詰まらない台本にノーと言えないと、
この風潮はそのままだ。



で。



「ワンカットゾンビ」は面白かったのか?

圧巻ではあった。
圧巻というのはガワの話だ。テクニックとか大変さだからだ。
ストーリーそのもの、
「封印を解いて彼女が女王になった」
というB級ストーリーの、
何が面白いのか、
ということなんだよ。

そんなもののために、
オモチャのように楽しいね!
って思ってるのは、
バカでしかない。

いい大人がこんなもののために頑張るのは、
やめときなさい、
ということだ。

こんなクソみたいな台本に、
必死にならなくてもいいじゃないか。

あのオカッパプロデューサーみただろう?
「うまいこといっやん」だぜ?

(腹立つ感じは実にうまいが、
それは映画外の文脈を強く感じさせるという意味において、
カメラレンズを拭う手と同じ効果にしかなっていない)


ちっともうまくいってない。
冒頭34分のゾンビ映画は、
ちっとも面白くなかっただろう?




映画は楽しいオモチャだ、という主張は、
つまりは洗脳装置だ。

オウムと何が違うのだ。


目を覚ませ。


詰まらないものは詰まらないと言え。
面白いものは拍手をし、絶賛せよ。


それだけが、クソ台本を淘汰する。


興行の惨敗の反省会などやらない。
「主役が数字を持ってなかった」ばかりだ。

ホンが詰まらなかったからで、
こうすればよくなった、
という反省会をしていないからだ。

映画の骨格はホンであり、
心を震わせるテーマであり、
最終的にはそこにどれだけ肉薄できたかだ。



映画づくりをオモチャのようで楽しいなんて言ってるやつは、
アマチュアでしかない。

映画に携わるプロフェッショナルほど、
この作品は否定する。
posted by おおおかとしひこ at 11:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。