王道の中でも詰まらないものはベタ扱いされる。
ベタを嫌って奇手に走ると、
「なぜ王道にしないのか」と言われる。
王道とはなにか。
僕は、「安心したい」という願望が、
人にはあると考えている。
たとえば。
昨今の異常気象。
「今後どうなるかわからない」という情報よりも、
「恒常性の範囲内」と言われる方が安心するだろう。
「死んだらどうなるかわからない」と言われるより、
「天国と地獄があり、生前の評価が下される」
と言われた方が安心する。
物語は人を「安心の世界、安定の世界」に導く役割を果たす。
(だから宗教は物語の形式を取る。
経典は物理学ではなく、物語である)
「頑張ったが、認められなかった」よりも、
「頑張ったので、その成果が出た」ほうが、
「メインヒロインとくっつかず、後から出てきた女とくっつく」よりも、
「最初から張っていた伏線をきちんと回収して、
メインヒロインと堂々ゴールインする」ほうが、
「死んだ者の残したものは役に立たなかった」のりも、
「死んだ者の思いが助けてくれた」ほうが、
私たちは安心する。
世界はきちんとしたルールに基づいているのだと。
そのようなものに帰着するものを、
王道のハッピーエンドという。
それは庶民のマインドをコントロールする、
庶民安定装置で、
大事なことを伝えない隠蔽だ、
と思う人たちは、
バッドエンドやビターエンドや、
奇妙な展開を好む。
しかしそれは、
「安心したい」という無意識の願望に対して、
背を向けていることになる。
もしバッドエンドやビターエンドにしたいならば、
見た人全員を、
「ぬるいもので安心している場合ではない。
世界はおかしい。今すぐ認識を改め、
真実のために行動しなければならない」
と思わせないか限り、
「心に刺さるバッドエンドやビターエンド」
ではないということを心しておこう。
よく出来ていないハッピーエンドよりも、
ちょっと出来てるバッドエンドやビターエンドの方が、
よく見えているだけで、
ハッピーエンドを否定するのは見識が浅い。
自分の作ったバッドエンドやビターエンドが、
よく出来ていないハッピーエンドよりも、
出来が下だってこともある。
バッドエンドやビターエンドだから良いと言う輩は、
形式で判断する、
ガワで中身を見ない人だ。
本当の王道のハッピーエンドは、
この世界に生まれてきてよかった、
この世界で私は安心していて良いのだ、
と喜びを分かち合えるものをいう。
バッドエンドやビターエンドの、
世界を疑う者を、
安心させられるものをいう。
殆ど宗教かも知れない。
だから宗教に物語は使われ、
物語の作者は神と呼ばれるのである。
あとは、オウムのように社会に危害を与えるのか、
信者たちでぬくぬくと遊んでいるかの違いである。
私たちは物語をなぜ見るのだろう。
不安だからで、信賞必罰なかっちりした世界を見て、
安心したいからだ、
ということもある、
という視点を失わないようにしたい。
2018年07月16日
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