2018年07月16日

王道は安心

王道の中でも詰まらないものはベタ扱いされる。
ベタを嫌って奇手に走ると、
「なぜ王道にしないのか」と言われる。

王道とはなにか。

僕は、「安心したい」という願望が、
人にはあると考えている。


たとえば。

昨今の異常気象。
「今後どうなるかわからない」という情報よりも、
「恒常性の範囲内」と言われる方が安心するだろう。

「死んだらどうなるかわからない」と言われるより、
「天国と地獄があり、生前の評価が下される」
と言われた方が安心する。

物語は人を「安心の世界、安定の世界」に導く役割を果たす。
(だから宗教は物語の形式を取る。
経典は物理学ではなく、物語である)



「頑張ったが、認められなかった」よりも、
「頑張ったので、その成果が出た」ほうが、

「メインヒロインとくっつかず、後から出てきた女とくっつく」よりも、
「最初から張っていた伏線をきちんと回収して、
メインヒロインと堂々ゴールインする」ほうが、

「死んだ者の残したものは役に立たなかった」のりも、
「死んだ者の思いが助けてくれた」ほうが、

私たちは安心する。

世界はきちんとしたルールに基づいているのだと。


そのようなものに帰着するものを、
王道のハッピーエンドという。

それは庶民のマインドをコントロールする、
庶民安定装置で、
大事なことを伝えない隠蔽だ、
と思う人たちは、
バッドエンドやビターエンドや、
奇妙な展開を好む。

しかしそれは、
「安心したい」という無意識の願望に対して、
背を向けていることになる。

もしバッドエンドやビターエンドにしたいならば、
見た人全員を、
「ぬるいもので安心している場合ではない。
世界はおかしい。今すぐ認識を改め、
真実のために行動しなければならない」
と思わせないか限り、
「心に刺さるバッドエンドやビターエンド」
ではないということを心しておこう。

よく出来ていないハッピーエンドよりも、
ちょっと出来てるバッドエンドやビターエンドの方が、
よく見えているだけで、
ハッピーエンドを否定するのは見識が浅い。

自分の作ったバッドエンドやビターエンドが、
よく出来ていないハッピーエンドよりも、
出来が下だってこともある。

バッドエンドやビターエンドだから良いと言う輩は、
形式で判断する、
ガワで中身を見ない人だ。



本当の王道のハッピーエンドは、
この世界に生まれてきてよかった、
この世界で私は安心していて良いのだ、
と喜びを分かち合えるものをいう。

バッドエンドやビターエンドの、
世界を疑う者を、
安心させられるものをいう。

殆ど宗教かも知れない。
だから宗教に物語は使われ、
物語の作者は神と呼ばれるのである。

あとは、オウムのように社会に危害を与えるのか、
信者たちでぬくぬくと遊んでいるかの違いである。



私たちは物語をなぜ見るのだろう。

不安だからで、信賞必罰なかっちりした世界を見て、
安心したいからだ、
ということもある、
という視点を失わないようにしたい。
posted by おおおかとしひこ at 13:16| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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