2018年07月18日

内輪受け(「カメラを止めるな!」批評4)

名作「ラジオの時間」「笑の大学」
と比較して論じる。

以下ネタバレあり。


どちらも、
「あるストーリーに横槍が入るトラブルが相次ぎ、
それを知恵と工夫と思い切りで乗り切るコメディ」
という構造に共通点がある。

しかし「カメラを止めるな!」と、
三谷幸喜作品の唯一の、
そして致命的な点は、
「映画を題材にしている」ところにある。

「ラジオの時間」はラジオドラマ、
「笑の大学」は演劇と、
扱う題材は異なるものの、
「映画ではない素材を映画で表現している」
という構造だ。

しかし「カメラを止めるな!」は、
「映画を素材に映画を表現している」
ということになってしまっている。


だから何をやったって、
セルフパロディになってしまう。


オカッパ頭のアホアホプロデューサーがその象徴で、
「プロデューサーはこんなもんだろ」
という作り手の自虐が入っている。

あるいは主演女優の「よろしくでーす」
という業界特有のスタッフを舐めている感じも、
作り手の自虐だろう。

これはゾンビ映画とは関係のない、
業界のセルフパロディだ。


つまり、
私たちは映画を見ながらも、
「映画の外の世界」を意識しなければならなくなる。



そもそも、
ストーリーというものは、
「作者が存在し、送り手がいる」
ことを意識してはならない。

漫画を読むときに、
「Gペンを作る人もいて、
コンビニに本を運ぶドライバーもいるのだなあ」
と思わない。

読み終えて我に返った時には思うかもしれないが、
読んでいる時は、
主人公がどうなるのかとか、
展開はこう来たのかとか、
作品内と対話している。

つまり、我に返らせないことが、
ストーリーの役目である。
ストーリーの焦点に縛り付けることだけを、
脚本家は執筆時に考えるべきである。

そして我に返らせないからこそ、
我々は夢中になることができる。

それがストーリーだ。


我に返らせる、
映画内の映画業界自虐は愚かな手段だ。

それは、「私たちは釘付けに出来る面白いストーリーを、
作ることができません」という敗北宣言からのスタートに見える。

私たちは父娘の関係や、
無茶振りのクリアに集中したいのに、
(それが釘付けになるほど面白くはないが)
ちょいちょい、
「この映画には作り手がいて、その日常がある」
ことを意識してしまう。


しかしハリウッドの内幕物は、
ハリウッドそのものを題材にしてるよね。

何が違うのだろう。

ハリウッドの内幕物は、
たいていテーマがはっきりしている。

「エンターテイメントは素晴らしい」
「エンターテイメントの陰には、化け物だらけ」
のどちらかであることが多い。


その化け物ぶりを風刺画として楽しみつつ、
いつのまにか「欲に囚われた人間」を炙り出すのが、
ハリウッドの内幕物の定番だ。

「カメラを止めるな!」には、
そのような明確なテーマがなかった。
欲に囚われた人間はいなくて、
化け物どもの集まりではなく愚か者の集団に見えた。
つまりテーマは「人は馬鹿だ」でしかない。


「本物/偽物」はモチーフとしてはあった。
しかし、
「作り方は偽物だが、
出来上がったものは本物であった」
わけではなかった。

ただのB級ゾンビ映画で、
これに価値があるとは思えない。


テーマらしきものは、
ラストの組体操と親娘の肩車で、
「ものづくりの魂/継ぐこと」
などをテーマとしたように見える。

だけどそうまでしてつくったものが、
ただのB級ゾンビ映画なのが、
痛々しくてしょうがないわけである。

ハリウッドの内幕物は、
「それがハリウッド映画である」
というだけで、莫大な金を使い利益を生む、
大ハッピーエンドが保証されているわけである。
作品はクソかも知れないが、
それで何千万ドルが回転するという。

一方ワンカットゾンビは、
金が回ったわけでもなく、
価値があったものでもない。

(金が回っていないが傑作という価値のある、
実写「風魔の小次郎」があるが、それはここでは突っ込まない)


映画内の設定上、
ワンカットゾンビは大ヒットして歴史を変えた、
とでもしない限り、
「そんなものを作るのに、何の意味があるの?」
に答えられないではないか。


オカッパプロデューサーは、
目薬の涙を本物と思い込み、
スマホをいじりながら見ていた。
それは愚かで騙されやすい大衆の象徴で、
風刺でもある。

じゃあ、その、
「偽物を作って適当に騙し騙しやることが、
素晴らしいことである(または諦める)」
というテーマになってしまう。

まだ、
「視聴率は振るわなかったが、
のちにここにいたスタッフは全員アカデミー賞を取った」
とかならわかる。

でも、
「なんとか間に合わせ、適度に騙し、
そこそこでいいんですと言われながら作り、
目薬じゃ本物じゃないと切れた娘を巻き込みながら、
できたもの」
の価値が、
なんにもないんだよね。


まさか、
スタッフはワンカットゾンビを、
価値ある傑作だと思ってる?

ワンカットは圧巻だけど
(実際にはワンカットではない。
いくつか繋いだポイントが見られる。
天候がバラバラだし)、
だからなに?

「真に迫れなかった三流女優が、
ゾンビの女王になった(真に迫った?)」
ことの、何が価値があるのだろうか?


ハリウッドの内幕物の傑作に、
「サンセット大通り」がある。
僕の尊敬する脚本家、ビリーワイルダーの生涯ベスト3の一本だ。

物語の後半、執事の正体を知った時、
我々は背筋が寒くなる。
そうまでして「映画に取り憑かれた人たち」がいることに。
ハリウッドという幻影に踊らされる人々の、
バットエンドムービーとして、
これほど凄まじい物語を僕は知らない。
そしてこれは、モノクロ時代というのが、
つまりはハリウッド内幕物をなにも進化させていない。

同年の傑作に、「イヴのすべて」もある。
AKBのドキュメントなんかより、
よっぽど真に迫る空恐ろしさのラストだ。

どちらも「ハリウッドという魔物」を描いた傑作なので、
未見なら見ることをお勧めする。

内幕物ならば、
これを超えるべきだ。

一方「映画は素晴らしい」という結論に至る名作に
「ニューシネマパラダイス」がある。
ディレクターズカットが圧巻だ。
あのラストがたまらなく号泣なので、
これまた未見の方はご覧いただきたい。

「映画を扱う映画」の内幕物は、
ここまでやらないと僕は認めない。


そうそう、
「ラジオの時間」「笑の大学」だった。

ラジオドラマや演劇という、
「映画以外のもの」を映画内に持ち込むことで、
これは「別の業界のこと」であることを担保する。

あくまでラジオドラマという別世界を描くことで、
これは別世界の出来事であるという。
(「笑の大学」に至っては、時代すら現在ではなく、
別世界に飛ばしている)


別世界に飛ばすことで、
映画とは関係ないがしかし映画にも共通する、
「ものづくりの大変さ、スリリングさ、
そして喜び」を描くことに成功している。

もし「カメラを止めるな!」に完成したムービーがなかったら、
三谷作品に匹敵する、
「チームワーク」の映画だとなったかもしれない。
しかしそれは構造上無理だ。


つまりこの映画は構造上、
「完成品を見せる」から逃れられず、
その完成品が価値のないものである限り、
「価値のないものに頑張る俺たち、自己撞着」を生む。

嗚呼、ダサイクル。



僕が演劇がメチャクチャ好きではないのは、
演劇の観客に演劇関係者が多いことだ。
同じ人たちだけで回している感じが、
内輪受けで気持ち悪い。

物語はもっと普通の人にひらかれたものであるべきだと思う。




たしかに構造は面白いよ。
「「「「映画を作る男」を作る男」を作る監督」
を撮ってるメイキングのエンドロール」
みたいなマトリョーシカ構造はわかった。
さらにいうと、
「それを作った人たちが舞台挨拶する」
までマトリョーシカにしてきたのは徹底していた。

まるで玉ねぎの皮むきだ。
むいてもむいても同じ構造が写像されていく。

で、
真ん中の玉ねぎの芯が、
なにもなかった。

最後に出てくる中心はなんだ。

それが私たちが冒頭に見た、
「たいして価値のないワンカット映画」だ。


そんなものの為に、
大人たちが群がっていることが、
気持ち悪い。


もともとエンブゼミナールという、
ワークショップ的な集団から出来上がった作品だ。
その感じも、
とても内輪受けだった。


ちなみに後輩情報によると、
ゆうばり映画祭で大評判だったらしい。
ゆうばりも、内輪でぐるぐる回してるダサイクルで、
ぼくは大嫌いだ。


そもそも、関西の自主映画や自主演劇界が、
ローカルで閉じていて、
全国勝負しない内輪受けばかりなのが嫌になって、
僕は人生の勝負を上京にかけた。

こんなんでいいんなら、俺は京都の帝王になっていて、
満足して生涯を終えただろう。



今邦画は、
人気キャストのファンしか来ない、
内輪受けのようになってきている。

僕はそれに危惧をしていて、
企画性、ストーリー性で映画は人を惹きつけるべきだと考えている。

その意味で、この映画は今年のワースト確定となった。
人生のワースト10に入る勢いだ。
posted by おおおかとしひこ at 21:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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