説明全般に言えることだが、
脚本の場合はとくにト書きにそれが現れることが多い。
しっかりした説明は、
全体から部分へ、理解を誘導する。
あるいは逆に、
部分から全体に理解を誘導する。
どちらを使うかは説明の内容次第で、
両方可能な場合もあるし、
どちらかのほうが他方より分かりやすいこともある。
で、ト書きの場合、「カメラに映るものを書く」
わけだから、
理解の誘導は、視線の誘導なのだ。
例。
床に血。
それを辿ると、ナイフに刺された死体。
床の血→ナイフ→死体と、視線が順に誘導されている。
死体。ナイフ。床に流れた血。
これでもよい。
ただし前者だと、駆けつけた人は死体を検分するだろうし、
後者だと血を検分することになるだろう。
次に来るもので、誘導の順番は変わるだろう。
死体。ナイフ。床に流れた血。
死体を触り、
探偵 「死後3時間といったところか」
はおかしいわけだ。
気持ちの誘導にも使える。
まっすぐな道。その先には入道雲が湧いている。
と、
夏の風景。まっすぐな道。
では誘導する先が異なる。
前者だと夏のワクワクしたさわやかな気持ちになるから、
先には希望がある。絵でいうと引きで終わるだろう。
後者だと、暑い日に長い道をこれから歩かねばならない、
登場人物のうんざり感に誘導される。
つまり前者ではシーンが終わり、次のエピソードに話が移るが、
後者では人物の登場に誘導される。
ためしに夏を嵐に変えてみよう。
まっすぐな道。先には嵐の黒雲が。
と、
嵐の黒雲。そしてまっすぐな道。
の比較で言えば、
前者はシーンの終わり(焦点は先行きの不安)、
後者はシーンの始まり(焦点は嵐の予感される道)、
に使えるということになる。
順番が異なると意味が変わるのが、
モンタージュ理論であった。
なんのことはない。
説明して誘導するのに、適切に視線を移動できているかどうか、
ということを言っているわけだ。
もし暇ならアイフォンで撮影し、適当な編集ソフトでやってみればわかる。
あるいは映画の該当シーンを、適当な編集ソフトで再編集してもよいだろう。
一回やってみると、
頭の中でも想像しやすくなるよ。
その説明は分かりやすいのか?は、
うまく視線を誘導できているのか?
に集約されるのではないだろうか?
全体から部分へ、部分から全体へ、
の原則を崩すと急に分かりにくくなる。
迫り来る敵。入道雲と道。ナイフ。
となると、間の風景はなんの意味があるのかわからなくなってしまう。
入道雲と道。迫り来る敵。ナイフ。
か、
ナイフ。迫り来る敵。入道雲と道。
が分かりやすい視線の誘導だ。
逆にいうと、分かりにくくするためには、
誘導をシャッフルするとよい。
ご契約者との解約ですが、ここでのご契約とは2017年までの契約に限りますが、
解約をしていただきますと過払いが発生します、
しかし解約手続きは2016年までに終わらせておく必要があり、
過払いは1万円までを上限とさせていただきます。
なんて書くと、まったく分からない説明になる。
(俺が保険屋を信用しないのは、
あいつらわざとこう書いてるか、
下手でこうしか書けないかのどちらかでしかないからだ。
前者は悪で、後者は愚だ。付き合う相手ではない)
説明は視線の誘導だけで、
多くを語らずとも可能である。
それが映画の説明だ。
2018年07月21日
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