それは感情移入のためである。
自分の全く知らないジャンルの話を書こう。
たとえば僕は先日長編小説を書いた(未発表)が、
その一遍にピアニストの話を書いた。
僕は音楽を習っていたわけでもないし、
クラシックに明るいわけでもない。
ただピアニストの話が書きたくて、
初めてピアノのことを色々調べた程度の初心者だ。
ピアノの鍵は88と決まっているとか、
昔は黒白の鍵が逆だったとか、
調べて初めて知ったことばかりだ。
長調と短調がメジャーとマイナーということは知っていても、
具体的に何がどう違うのかわかっていない程度の、
知識量だ。
にも関わらずピアニストの話が突然書きたくなったので、
色々調べて書いた次第。
知ってる世界を書いた方が、
詳しいから書けると思うかもしれない。
しかしそれは詳しい人しか分からない、
近視眼の話になってしまう可能性がある。
身近な話の方が書きやすいが、
その身近は誰にも理解されないというやつだ。
つまりオナニーになりやすい。
あと身近な世界ほど、
わざとマイナーな所を描こうとして、
世界が縮こまる可能性がよくある。
日本映画のしみったれたようなやつとかね。
全く知らない世界を書くことは、
「知らない世界なのだが、
そこに理解できる人間ドラマを見つける」ことである。
つまり感情移入だ。
感情移入は、共感ではない。
共感は「自分と似たもの」に発生するが、
感情移入は「自分と違うものにも」発生する。
それは、
「自分と違うものに、自分と似たものを発見した時」
に起こる、
というのが僕の説だ。
つまり、
知らない世界に、理解できる人間関係を見つける行為は、
ほとんどの人の感情移入できるプロセスを見つけたことに等しいのだ。
もちろん、
知らない世界に全く理解できる人間ドラマがなければ、
それは面白くならない。
しかし人間が生きているからには、
必ず理解できる人間ドラマがそこにあるものだ。
たとえば数学者という人間とはかけ離れた世界であっても、
嫉妬や足の引っ張り合いがあったりして、
同じ人間なのだなあということがあるものだ。
(数学者の逸話はいつも面白いよね)
知らない世界にそういう人間ドラマを発見するために、
知らない世界を調べよう。
知らない人が、その知らない世界を知っていく時に、
なにを「へえ」と思うか知ろう。
それは観客が思うことを、
あなたがちょっと先に知ることだ。
知っている世界だと、
「知らない人が理解できる(普遍的な)人間ドラマ」
を書くことはないだろう。
知っている世界のマイナー部分地獄めぐりでおしまいだ。
あなたの書きたい「人間ドラマ」はなにか?
あなたの書きたい「世界」を書いてはいけない。
人間ドラマを見失う。
あなたの知らない世界に、
あなたの書きたいドラマを見つけた方が、
誰もが感情移入できるストーリーを書ける。
わざと知らない世界を調べよう。
そこに「書ける」と思える人間ドラマを見つけた時、
それはたちまちストーリになってゆく。
2018年07月26日
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