2018年07月29日

焦点はなんですか?

とにかく困ったらこの呪文を唱えよう。

書きたいことはなにか?とか、
やりたいシーンは何か?とか、
俺はこの作品でこれを訴えたいのだ、
俺のビジョンを書きたかった、
などと考えてはいけない。


なぜなら、
「ストーリーに夢中になる」という現象は、
「焦点に夢中になる」ということだからだ。

キャラクターに夢中になることでも、
世界観に夢中になることでも、
設定に夢中になることでもない。

ましてや、
「作者のやりたいことはなんだろうか」とか、
「作者がここで何を訴えたいのだろう?」とか、
「作者の頭の中に湧いて出てきた唐突なイメージ」に、
夢中になるのではない。
(それは相当冷めて考えている状態で、
ストーリーに夢中になっている状態ではない)


ストーリーに夢中になっているときは、

この先一体どうなるんだ?
○○は生きてるのか、死んでるのか?
○○は成功するのか?
一体真相はどうなってるんだ?
展開が読めない、危険は終わってない
真犯人はだれなんだ

などに集中して、夢中になっているときだ。

その具体ポイントを焦点というわけだ。


詰まらないシーンがあるとして、
しかしこれは紹介シーンだから詰まらなくてもしょうがないとか、
これは説明シーンだから詰まらなくてもしょうがないとか、
必要な伏線シーンだから詰まらなくてもしょうがないとか、
これは自分の頭に浮かんだビジョンで、それを正確に書きたかった、
などと言い訳をしてはいけない。

そうだとしても、
それをやりながら、焦点を保つことは出来るからだ。

あいつは生きてるのか、と焦点を保ちながら、
自己紹介を挟むことはできるよね。
危険が迫り死にそうだ、と焦点を保ちながら、
説明シーンはできるよね。
一体どういう展開になるのか、と焦点を保ちながら、
伏線を張ることはできるよね。
真犯人はだれなんだ、と焦点を保ちながら、
あなたの頭に浮かんだ芸術的な感覚を描くことも可能だ。


つまり、
焦点は、1秒たりともぼやけず、
そこへ集中させ続けることが、
ストーリーを前に進めること全てで、
ほかのことは同時進行でやるべきことなのだ。

感動も笑いも涙も重い気持ちも心からの震えも、
焦点を保っているから湧いてくる感情なのだ。


焦点はだいたい決まっている。

危険は何か。
やらなきゃいけないことは何か。
それはなぜか。
ほかの手段はないか。
そもそも目的はなにか。

それが常に明快にわかっていて、
(文字で説明したからといって、わかるとは限らない。
まったく文字がないのにわかることが理想だ。
「命の危険が迫っている」と説明されるより、
強盗に銃を向けられるのが映画である)
かつ、
夢中にさせなければならない。


焦点はなんですか?

わからなくなったら自分に問おう。


途切れちゃいないか?
ちょっと前の焦点はなんだった?
今の焦点は?
今の話題は何?

それが常に観客の気にするところで、
ストーリーの少し前を照らすヘッドライトなのだ。

焦点があいまいなストーリー進行は、
真っ暗な中の、
進んでいるのか止まっているのか、
どこへも向かっていない車のようだ。

進行は道を照らせ。


最悪でも、
「ところで」「話変わりますが」「ちょっと話題変えていいですか」
と別の道を照らせ。
照らしてから進め。
posted by おおおかとしひこ at 10:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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