あなたのストーリーは、
主人公ないし登場人物が、人生ギリギリだろうか?
そうじゃないとすると、あんまり面白くないかも知れない。
人生ギリギリの定義にはいくつかあるだろう。
「ヤバイ」と人がいう基準は幅広い。
その人なりにヤバければ全部ヤバイだ。
死にかける、社会的生命を失いそうになる、
などは人生ギリギリだろうけど、
もっと軽微な時点でも、
その人(登場人物)にとっては人生ギリギリかも知れない。
で。
人生ギリギリ以外にも、ギリギリの娯楽はいくらでもある。
限界まで美しいものを見る。
音楽やスポーツを見る。
特にすごいアーティストや世界一決定戦なんかは興奮する。
映像体験に限れば、
CG、VR、ARは、
35ミリカメラ以上の何かを撮影できる可能性がある。
ギリギリ凄い映像はなんだろう。
あるいは、乳首見えそうなギリギリ映像は凄い。
どうでもいい女のどうでもいいそういう映像は凄くなくて、
知っている女の絶対に見られないパターンの、
ギリギリ映像は凄い。
YouTubeがテレビや映画を駆逐しようとしているのは、
「凄い」だけならば、
YouTubeで何かが出来るからである。
たとえばアルミを叩いて球にするドキュメントは、
それを思いついた時点で面白く、
実際に出来たらなかなか凄い。
もはや、
「凄い」だけのコンテンツならば、
映画やドラマに限らず、
たくさんあふれている。
その世界で、映画は凄さを競うべきか?
凄くなくていい、とは言わない。
凄いものは耳目を集めるから、
マスコミニケーション前提のメディアとして、
耳目を集めないのは意味がない。
しかしただ凄いだけでは、
二時間縛り付けるだけの意味がない。
アルミ球の凄さを手軽に見れるYouTubeや、
音楽やスポーツやエロの凄さや、
VRの体験映像の凄さとは、
違う凄さが必要だ。
その、映画ドラマにしかないのは、
ストーリーの凄さだ。
その凄さはスケール感とかスピード感も要件のひとつではあるが、
「いかに人生ギリギリか」
が本質ではないかと考えている。
正確にいうと、
「いかに人生ギリギリになり、
いかにそれを解消して、
そこにいかに深い意味を見いだせるか」
が、
ストーリーにしか出来ない凄さだ。
映像体験的な凄さは、
もはやゲーム映像やCGやVRに追い抜かれている。
ちょっとしたネタ的な凄さは、
YouTubeに追い抜かれている。
現実に起こる凄さは、
ドキュメントやリアルタイムスポーツに追い抜かれている。
音楽的体験は、
ライブに追い抜かれている。
映画は、これらの一部を取り込むことで発展してきたが、
これらのガワだけを見れば、
特化したべつのもののほうが凄くて、
映画のそれは擬似のような気がする。
ポルノ映画はAV擬似本番に負け、
擬似本番は本番に負け、
そのAVは無料動画に負けている。
新しいメディアが誕生するたびに、
そのガワが持つ刺激の凄さは、
映画のそれを凌駕し続ける。
その時に映画やドラマが提供できる凄さって、
ストーリーの凄さでしかないと思うのだ。
で、
人生ギリギリだろうか?
面白い、人生ギリギリだろうか?
を考えると、
出口が見えてくるんじゃないかと思ったのだ。
「そのギリギリをどうすんの?」
に答えるには、
ストーリーしか満足を与えられない。
そのように、ストーリーをとらえ直せば、
映画にしか出来ないことは、
面白くなるはずだ。
2018年07月29日
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