2018年07月29日

物語が与えられるのは「人生ギリギリの体験」

あなたのストーリーは、
主人公ないし登場人物が、人生ギリギリだろうか?

そうじゃないとすると、あんまり面白くないかも知れない。


人生ギリギリの定義にはいくつかあるだろう。
「ヤバイ」と人がいう基準は幅広い。
その人なりにヤバければ全部ヤバイだ。

死にかける、社会的生命を失いそうになる、
などは人生ギリギリだろうけど、
もっと軽微な時点でも、
その人(登場人物)にとっては人生ギリギリかも知れない。


で。

人生ギリギリ以外にも、ギリギリの娯楽はいくらでもある。

限界まで美しいものを見る。
音楽やスポーツを見る。
特にすごいアーティストや世界一決定戦なんかは興奮する。

映像体験に限れば、
CG、VR、ARは、
35ミリカメラ以上の何かを撮影できる可能性がある。
ギリギリ凄い映像はなんだろう。

あるいは、乳首見えそうなギリギリ映像は凄い。
どうでもいい女のどうでもいいそういう映像は凄くなくて、
知っている女の絶対に見られないパターンの、
ギリギリ映像は凄い。

YouTubeがテレビや映画を駆逐しようとしているのは、
「凄い」だけならば、
YouTubeで何かが出来るからである。

たとえばアルミを叩いて球にするドキュメントは、
それを思いついた時点で面白く、
実際に出来たらなかなか凄い。

もはや、
「凄い」だけのコンテンツならば、
映画やドラマに限らず、
たくさんあふれている。

その世界で、映画は凄さを競うべきか?

凄くなくていい、とは言わない。
凄いものは耳目を集めるから、
マスコミニケーション前提のメディアとして、
耳目を集めないのは意味がない。

しかしただ凄いだけでは、
二時間縛り付けるだけの意味がない。
アルミ球の凄さを手軽に見れるYouTubeや、
音楽やスポーツやエロの凄さや、
VRの体験映像の凄さとは、
違う凄さが必要だ。

その、映画ドラマにしかないのは、
ストーリーの凄さだ。

その凄さはスケール感とかスピード感も要件のひとつではあるが、
「いかに人生ギリギリか」
が本質ではないかと考えている。

正確にいうと、
「いかに人生ギリギリになり、
いかにそれを解消して、
そこにいかに深い意味を見いだせるか」
が、
ストーリーにしか出来ない凄さだ。


映像体験的な凄さは、
もはやゲーム映像やCGやVRに追い抜かれている。
ちょっとしたネタ的な凄さは、
YouTubeに追い抜かれている。
現実に起こる凄さは、
ドキュメントやリアルタイムスポーツに追い抜かれている。
音楽的体験は、
ライブに追い抜かれている。

映画は、これらの一部を取り込むことで発展してきたが、
これらのガワだけを見れば、
特化したべつのもののほうが凄くて、
映画のそれは擬似のような気がする。

ポルノ映画はAV擬似本番に負け、
擬似本番は本番に負け、
そのAVは無料動画に負けている。


新しいメディアが誕生するたびに、
そのガワが持つ刺激の凄さは、
映画のそれを凌駕し続ける。

その時に映画やドラマが提供できる凄さって、
ストーリーの凄さでしかないと思うのだ。



で、
人生ギリギリだろうか?
面白い、人生ギリギリだろうか?

を考えると、
出口が見えてくるんじゃないかと思ったのだ。

「そのギリギリをどうすんの?」
に答えるには、
ストーリーしか満足を与えられない。


そのように、ストーリーをとらえ直せば、
映画にしか出来ないことは、
面白くなるはずだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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