2018年07月30日

リアルの果ては、スケールの小ささ(「万引家族」批評2)

若者が書く物語が、半径2メートルしかないなんて良く言われる。
ひと家族の半径5メートルは、ええんかいな。

以下ネタバレ。


ぼくは「海街ダイアリー」がとても嫌いだ。
これも半径5メートルくらいだった。

なんだろう。

リアルなのがいいのかな。
だったら松岡茉優みたいな可愛い子があそこにいるのは変だ。
もっと不細工でなければならない。

「カメラを止めるな」のほうが、
リアルな不細工ばかりで、
よほどリアルだったぜ。



是枝監督は、ドキュメントの人として映画界にきた。
設定を与えて、
大事なセリフはこれで、
流れはこうで、
と、長回ししておいて、
自然にその人が言った瞬間を捉えていた。

それはとどのつまり、
リアルにその場にいる感じの、
方法的な強調だ。

いや、正確にいえば、
強調的な滑稽な演技から引き算をするための方法論だ。

どちらにせよ、
出来上がったものは、リアルを強調されている。



さて。


で、リアルになってなにがいいんだっけ。

嘘くさくないことはメリットだ。
「しみったれて、直視したくない現実がそこにある」
ことがデメリットだ。

ぼくは「闇金ウシジマくん(原作版)」が嫌いだ。
そういう現実の辛いところから逃れてフィクションに行くのに、
フィクションもどん詰まりを見せられる。


フィクションはどん詰まりの現実に、
風穴をあけるべきだと思う。
真っ暗な夜の、灯台であるべきだと思う。
どっちへ行っていいかわからない時の、
地図であるべきだと思う。

そのように組み立てるために、
料理をするべきだと思う。

「万引家族」は、料理のされていない刺身だ。
子役の素材と、松岡茉優の素材と、
リリーフランキーと安藤サクラと樹木希林の素材の、
アドリブ刺身定食にすぎない。

一方「カメラを止めるな!」は、
極上でない素材を、
なんとかして選り分けてシチューとして成立させている。

キャスト費に対してのコスパが全然違う。


リアルをアドリブに任せる限界が見えたのは、
「音しかない花火」のシーンだった。

予算がなくて花火を合成できないことを逆手に取った、
アイデア自体はよいと思う。
しかしそれらに対する、
役者のアドリブが、
「このシーンしか見ていない」アドリブばかりで、
何も面白くなく、
ああ、セリフが用意されてないんだなあと、
悲しくなってしまった。

なぜなら、
あの花火のシーンの「存在する意味」が、
ストーリーにとって希薄だからだ。

翔太が帰ってこない日、
車に迎えに行った夜の、
国語の教科書の話も、
何の意味もなかった。




リアルな日々というものは、
これらのように、
あまり意味がないものの積み重ねである。
毎日が物語のようになり、
緊張が高まり、
全てのシーンがつながってくるわけではない。

だから、フィクションなのだと僕は考える。

リアルが、
意味がなくて、無為で、なんとなくで、
集まって解散するだけで、
これでいいんだろうかとずっと思ってるから、
フィクションで、
意味を確認したいのだ。


「これでいいんだろうか、
たぶん、よかったはずだ」
という不安こそがこのストーリーなのだろうか?

樹木希林が海でずっと見ていた長回し、
安藤サクラの取り調べの泣くまでの長回し、
ラストカットは凛の長回し。
(このショットがすべて女性なのが気になった。
男は何かを見ているのか?見ていないのだよ)

何かを見ているショットは、
見ている物体以上に、
「意味を見ようとしている」ショットである。

でも、
そんな不安は今の日本を覆いすぎていて、
少しでも答えや希望が欲しい、
観客の現在とシンクロしすぎていて、
痛々しさしかない。

「大人は何も出来なかった。
その上の大人は何かは残せた。
あとは苦しいだろうが、
不安定な小さい次の世代に丸投げ」
という、
今の日本の縮図しか、
テーマになり得なかった。


そこからどうする?
こそが、日本の次のテーマになるべきなのに。

写像したぞ、すごいだろう?
がドキュメントの限界だ。

写像してないのに写像していて、
しかも灯台になるものを、
フィクションという。


半径5メートルの中に答えはない。
posted by おおおかとしひこ at 10:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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