花火のシーンに象徴されるように、
役者によるアドリブは、
シーン単位でしか焦点を作ることはできない。
シーンを超えて保たれる焦点を作ることが、
ストーリーを作ることだと僕は考えている。
以下ネタバレ。
水着のエピソードは素敵だったかも知れないが、
それは前後にどういう焦点があったか?
海へ行くエピソードの前の焦点はなんだっけ?
それがどうして海になり、
どうしてバアさんの死につながったんだっけ?
もちろん、
リアルな人生はすべては唐突で、
因果関係などないことが予兆なく起こる。
だからリアリティの写しとしては、
まあありそうで、妥当な線かもしれない。
で、リアリティは物語か?
という別の問題が出てくるわけだ。
僕は、
フィクションのストーリーとは、
「人生の因果関係を説明すること」
だと考えている。
それは科学(実証再現可能範囲のこと)、
宗教(それ以外のこと)、哲学(神関係ないところ)、
仮説などは、
すべて物語形式を取ることから、
理解できると考えている。
だから、
フィクションというものは、
人生の因果関係をなにかひとつ明らかにして、
なにかひとつの結論を出すべきだと考えている。
(それをテーマという)
荒唐無稽な映画であればあるほど、
戯画化をするべきであり、
リアル寄せの映画であればあるほど、
真剣に人生と取り組んだなにかであるべきだと考えている。
そのためには、
すべてのシーンは意味のある構造を持たないといけない。
論文の章立てや節立てと同様、
シーンは構造を持つべきだ。
論文というと極端だが、
つまりは因果関係こそがシーン同士の関係ということだ。
あれがあったから、
これがあり、
これのせいで、
こうなっていく、
ということの連関が必要だということである。
人生にこれがあることは滅多にない。
だから理不尽で、唐突で、つらいのだ。
それを、
整理して、こういうことなのだ、
とクリアにすることが、
物語の役目だと考えている。
あれがあったからこれがあり、
という構造においては、
焦点がどう保たれているかが肝要である。
「その日暮らし」にシーンがならないためには、
大きな流れがこうであり、
その為にこうしなければならず、
そして今このシーンがある、
という、
最低でも三層の構造になっている必要がある。
しかるにこの映画では、
「誘拐ではないが誘拐してきたこと」
「バアさんの死を隠したこと」
という大きな構造と、
目の前のシーンのアドリブ
(たとえばハンカチの手品はどういう意味があったか?
ないよね)
の、二層しかない。
目の前のシーンのアドリブは、
シーン単位でしか撮影できない、
役者の限界だ。
たとえば、
「音しかない花火」のシーンでの役者のアドリブは、
そこのシーン単位の範囲しかなかった。
「地上げがありすぎて、
ここでは空がなくなったんだよ。
昔は見えてたのに」
という、年寄りの言葉があってしかるべきだ。
なぜなら、
「この家は地上げを受けている」
という前段があり、
それは焦点のひとつであるからだ。
そのセリフを、
シーン単位で樹木希林がアドリブで言えるわけがない。
それは脚本への侵食だからだ。
地上げに対する恨み言があれば、
それが焦点になり、
地上げへのストーリーが生まれるからである。
その介入行為ができない以上、
仮に樹木希林が現場で言ったとしても、
カットせざるを得ないだろう。
なぜなら地上げへのストーリーは、
脚本のどこにもないからである。
つまり、
シーン単位のリアリティは、
役者のアドリブによって担保されているが、
そもそもそのストーリーはどこに行こうとしているのか、
焦点が明確でないのが、
この監督の限界だ。
シーンとシーンの間をつなぐものなどない。
人生のように。
と言うのなら、
人生レベルで終わっていると言うだけのことだ。
ただの人が、
訳の分からない不安を抱えて、
仲の良い人とわちゃわちゃやっている、
明日のない今日が、
人生だと言っているにすぎない。
それのどこが良いと言うのだ?
シーン単位の焦点は、
役者のテンションでなんとかなる。
ただそれでおしまい。
数分間の美味しい部分がつまみ上げられる。
しかしそれは俯瞰で見ると点でしかなく、
点と点を結ぶ線がない。
「海街ダイアリー」は、
写真家滝本幹也の写真集でしかなかった。
ドラマは単発で、群像だった。
それらをつなぐ長い線がなかった。
「万引家族」も、
構造が全く同様で、
違いは海のある美しい風景か、
家ひとつでしかなかっただけだ。
焦点はどの範囲のことか?
目の前の点しか見えていないのだとしたら、
地を這う虫と何が違うんだ?
2018年07月30日
この記事へのコメント
コメントを書く