2018年08月03日

物語とは「他人と関わることで生まれるなにか」

今日のコメント返し(シンゴジラ批評5)に関連して。

メアリースーの闇の底へいこう。

「人と関わるのが下手な人が、
物語の世界へ逃げ込み、
書き始めるのだが、他人との関わり合いをうまく描けないが故に、
メアリースーを生んでしまう」

ということについて書いてみる。


僕は、「リア充は脚本を書かない」と豪語している。

リア充は人との関わり合いに忙しく、
脚本を書くのに必要な、
「何日間も人と会わず、連絡も取らず、
集中してその作品とだけ関わる」
時間を持てないし、持たないし、
持つ習慣がない。

そしてその前段階というか基礎教養としての、
「膨大な時間を使った、
膨大な名作や失敗作を見ている時間」
を持っていない。


幼少の頃から砂場でリア充だった子供は、
窓際で本ばかり読んだり、
映画館に入り浸ったり、
テレビやネットフリックスばかり見ている学生には、
育たないと思うのだ。


他人と関わるのには、
膨大な手間と時間がかかる。
特に女は会うたびにマメにしないといけないから、
膨大な手間と時間がかかる。

ということで、
そもそも脚本なんて書こうとする人は、
孤独な人が多い。


孤独だから膨大な過去作を見ていて、
孤独だから膨大な創作時間がある。

リア充は、そのどちらも確保することが出来ない。


で、
だから、
脚本初心者の書く作品は、
「人との関わり合いが下手」な話になりがちだ。


主人公は書けるが、
その他のキャラクターを、
主人公がなにかをするための道具や駒のように、
扱いがちである。

たとえば主人公が最強であることを示す噛ませ役、
たとえば主人公がモテモテであることを示すハーレム女、
たとえば親ごえの代わりに敵を倒す主人公、

などなどのようにだ。

戦う相手も同じ人間であることとか、
セックスする相手も同じ人間であることとか、
敵のボスも人間であることとか、
想像に及ばない。

いや、仮に及んだとしても、
同レベルの他人同士が、
どう関わるのかをうまく描けない。

敵か味方かの01にしかならなかったり、
上か下かの01にしかならなかったり、
良いかダメかの01にしかならなかったりする。

最初は微妙な関係だったが、
意気投合しあい、
しかし決定的な亀裂があることに気づいて決裂し、
しかし呉越同舟ながら、
仲間意識がありながらも、
別々の他人であることを認め合いながら、
なんとかやっていく、
なんてことをうまく書けなかったりする。


だから、
メアリースーになる。


メアリースーの闇の原因は、
作者が他人と関わるのが下手だからだ、
と断言しても良い。


ご都合主義も同様だ。

他人のいる社会では、
「他人の都合を無視して、
自分の都合だけを通す」ことは難しい。

しかしその困難から逃げて、
「自分の都合だけがなぜか簡単に通る」
ことがご都合主義の正体だ。

物語の中とはいえ、
「他人にも都合があり、
自分にも都合があり、
それを折衝していく」
をしなければならない。

それをすっ飛ばして、
「ラッキーにも/偶然にも/なぜか、
主人公の都合のいいお膳立てが整う」
ことがご都合主義だ。

それは、都合と都合の折衝から、
逃げているのだ。



この、都合と都合の折衝を、
コンフリクトという。

コンフリクトは内面の葛藤を意味しない。
他人との関わり合いのことである。

自分とは全然違う人の都合と、
自分の都合が全く違っていて、
共通点を探したり、
違う点を探し出したりして、
より良い結論にたどり着こうとしたり、
排斥したりすることである。


ストーリーは、これを書かなければいけない。


本音でいうと、面倒だ。


他人との面倒な関わり合いを避けて、
リアルではないフィクションに逃げてきたというのに、
それを作ろうとすると、
その一番面倒でややこしいことを、
「つくる」ことが必要なのである。
しかもそれが最も核であると、
ストーリー理論はいうのである。


これが、
創作ジャンルが、
絵や音楽やネタ動画や、彫刻や舞踊や俳優ならば、
この面倒を避けられるかもしれない。

自閉症でも可能な芸術であると思う。

だが、ことストーリー作りという創作は、
その面倒な部分を理解し、
操作して、
架空の面倒を解決しなければならないのだ。


僕が、
「自分を主人公にするな」と、
事あるごとに言っているのも、
他人と関わるのが出来ない作者が、
他人と関わることが出来ない主人公を書き、
他人と関わらないまま成功する、
メアリースーを書いてしまうからである。

自分を主人公にしていいのは、
あなたがリア充で、
他人と上手に関われて、
なにもかもうまく成功させられる自信があり、
そのカラクリを知っていて、
それをフィクションの世界にうまく構築する能力が、
ある人だけである。

で、そんな人は脚本を書かない。



多くの人は、そんなに強いリア充ではない。
どこかに「他人とうまく関われない」という闇を抱えている。
だからフィクションに惹かれるのだと思う。

自分と少し似た、他人と関われない人間を見て安心して、
その人がうまく他人とやっていく解決を見て、
ああ、自分もこうすればいいのかと思ったり、
この人が出来るんだから自分も何か出来るかもしれない、
と思ったりする。

それがカタルシスの正体であると僕は考えている。

だからフィクションにおける、
「他人とうまく関われない人が、
どうにかしてうまく関わり、
ものごとを解決する」には、
相当のリアリティと、
現実を上手に捨象した、
本質の抽出が不可欠だ。


そんなもの、
「他人とうまく関われない度ハイクラス」の、
脚本家自身を主人公にしてしまったら、
出来るわけがないのである。


だから、
自分とは別の人格を、
創造するのである。


ひとつのコツがあって、
リア充と付き合うことである。

リア充は他人を分け隔てしない人が多いので、
他の人と同様に陰キャな人とも接することができる。
しばらくその人とつるむといい。
どういう他人とどのように付き合っているのか、
どう都合と都合を折衝しているか、
目の当たりにできる。

あなたが孤独では知り得ないことを、
体験できるのは大きいことだ。

学生時代にそういう友人と巡りあえることは、
脚本家を目指す人にとって、
幸運かもしれない。

これはネットでは出来ないことだ。
映画はネットを写している動画ではないからだ。
(画面がツイッターだけの映画も作ることは、
可能かもしれないが)

リア充を観察しよう。

そうすれば、
あなたの中に「リア充人格」がある程度出来上がる。

これをフィクションの世界に持ち込もう。

あなたがもしリア充だったら、
というキャラクターが作りやすいが、
その人と自分の中間のようなキャラクターでも良いかもしれない。


ある面はあなたに近く、
ある面はリア充の面があり、
それらが矛盾なく首尾一貫して融合していれば、
その「自分とは違う別キャラクター」は、
架空の世界の、
架空の都合と都合の折衝を、
うまく乗り越えていけるだろう。


物語に出てくる人は、
現実より少し行動的である、
ということは覚えているべき法則だ。



あなたは孤独かもしれない。
作品を見る人も孤独かもしれない。

しかしそれが、
作品が孤独で他人と関われない、
ご都合を描いていい理由にはならない。

孤独な人が孤独を分かち合いたいなら、
同好の集いに参加しなさい。
ストーリーを書くことは、それを癒さない。



ストーリーとは、
孤独な人もリア充も見る、
みんながワクワクして、感情移入できて、
心の奥深くに染み込むもので、
現実でうまくいかない人に対して、
希望を与えるものであるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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