今日のコメント返し(シンゴジラ批評5)に関連して。
メアリースーの闇の底へいこう。
「人と関わるのが下手な人が、
物語の世界へ逃げ込み、
書き始めるのだが、他人との関わり合いをうまく描けないが故に、
メアリースーを生んでしまう」
ということについて書いてみる。
僕は、「リア充は脚本を書かない」と豪語している。
リア充は人との関わり合いに忙しく、
脚本を書くのに必要な、
「何日間も人と会わず、連絡も取らず、
集中してその作品とだけ関わる」
時間を持てないし、持たないし、
持つ習慣がない。
そしてその前段階というか基礎教養としての、
「膨大な時間を使った、
膨大な名作や失敗作を見ている時間」
を持っていない。
幼少の頃から砂場でリア充だった子供は、
窓際で本ばかり読んだり、
映画館に入り浸ったり、
テレビやネットフリックスばかり見ている学生には、
育たないと思うのだ。
他人と関わるのには、
膨大な手間と時間がかかる。
特に女は会うたびにマメにしないといけないから、
膨大な手間と時間がかかる。
ということで、
そもそも脚本なんて書こうとする人は、
孤独な人が多い。
孤独だから膨大な過去作を見ていて、
孤独だから膨大な創作時間がある。
リア充は、そのどちらも確保することが出来ない。
で、
だから、
脚本初心者の書く作品は、
「人との関わり合いが下手」な話になりがちだ。
主人公は書けるが、
その他のキャラクターを、
主人公がなにかをするための道具や駒のように、
扱いがちである。
たとえば主人公が最強であることを示す噛ませ役、
たとえば主人公がモテモテであることを示すハーレム女、
たとえば親ごえの代わりに敵を倒す主人公、
などなどのようにだ。
戦う相手も同じ人間であることとか、
セックスする相手も同じ人間であることとか、
敵のボスも人間であることとか、
想像に及ばない。
いや、仮に及んだとしても、
同レベルの他人同士が、
どう関わるのかをうまく描けない。
敵か味方かの01にしかならなかったり、
上か下かの01にしかならなかったり、
良いかダメかの01にしかならなかったりする。
最初は微妙な関係だったが、
意気投合しあい、
しかし決定的な亀裂があることに気づいて決裂し、
しかし呉越同舟ながら、
仲間意識がありながらも、
別々の他人であることを認め合いながら、
なんとかやっていく、
なんてことをうまく書けなかったりする。
だから、
メアリースーになる。
メアリースーの闇の原因は、
作者が他人と関わるのが下手だからだ、
と断言しても良い。
ご都合主義も同様だ。
他人のいる社会では、
「他人の都合を無視して、
自分の都合だけを通す」ことは難しい。
しかしその困難から逃げて、
「自分の都合だけがなぜか簡単に通る」
ことがご都合主義の正体だ。
物語の中とはいえ、
「他人にも都合があり、
自分にも都合があり、
それを折衝していく」
をしなければならない。
それをすっ飛ばして、
「ラッキーにも/偶然にも/なぜか、
主人公の都合のいいお膳立てが整う」
ことがご都合主義だ。
それは、都合と都合の折衝から、
逃げているのだ。
この、都合と都合の折衝を、
コンフリクトという。
コンフリクトは内面の葛藤を意味しない。
他人との関わり合いのことである。
自分とは全然違う人の都合と、
自分の都合が全く違っていて、
共通点を探したり、
違う点を探し出したりして、
より良い結論にたどり着こうとしたり、
排斥したりすることである。
ストーリーは、これを書かなければいけない。
本音でいうと、面倒だ。
他人との面倒な関わり合いを避けて、
リアルではないフィクションに逃げてきたというのに、
それを作ろうとすると、
その一番面倒でややこしいことを、
「つくる」ことが必要なのである。
しかもそれが最も核であると、
ストーリー理論はいうのである。
これが、
創作ジャンルが、
絵や音楽やネタ動画や、彫刻や舞踊や俳優ならば、
この面倒を避けられるかもしれない。
自閉症でも可能な芸術であると思う。
だが、ことストーリー作りという創作は、
その面倒な部分を理解し、
操作して、
架空の面倒を解決しなければならないのだ。
僕が、
「自分を主人公にするな」と、
事あるごとに言っているのも、
他人と関わるのが出来ない作者が、
他人と関わることが出来ない主人公を書き、
他人と関わらないまま成功する、
メアリースーを書いてしまうからである。
自分を主人公にしていいのは、
あなたがリア充で、
他人と上手に関われて、
なにもかもうまく成功させられる自信があり、
そのカラクリを知っていて、
それをフィクションの世界にうまく構築する能力が、
ある人だけである。
で、そんな人は脚本を書かない。
多くの人は、そんなに強いリア充ではない。
どこかに「他人とうまく関われない」という闇を抱えている。
だからフィクションに惹かれるのだと思う。
自分と少し似た、他人と関われない人間を見て安心して、
その人がうまく他人とやっていく解決を見て、
ああ、自分もこうすればいいのかと思ったり、
この人が出来るんだから自分も何か出来るかもしれない、
と思ったりする。
それがカタルシスの正体であると僕は考えている。
だからフィクションにおける、
「他人とうまく関われない人が、
どうにかしてうまく関わり、
ものごとを解決する」には、
相当のリアリティと、
現実を上手に捨象した、
本質の抽出が不可欠だ。
そんなもの、
「他人とうまく関われない度ハイクラス」の、
脚本家自身を主人公にしてしまったら、
出来るわけがないのである。
だから、
自分とは別の人格を、
創造するのである。
ひとつのコツがあって、
リア充と付き合うことである。
リア充は他人を分け隔てしない人が多いので、
他の人と同様に陰キャな人とも接することができる。
しばらくその人とつるむといい。
どういう他人とどのように付き合っているのか、
どう都合と都合を折衝しているか、
目の当たりにできる。
あなたが孤独では知り得ないことを、
体験できるのは大きいことだ。
学生時代にそういう友人と巡りあえることは、
脚本家を目指す人にとって、
幸運かもしれない。
これはネットでは出来ないことだ。
映画はネットを写している動画ではないからだ。
(画面がツイッターだけの映画も作ることは、
可能かもしれないが)
リア充を観察しよう。
そうすれば、
あなたの中に「リア充人格」がある程度出来上がる。
これをフィクションの世界に持ち込もう。
あなたがもしリア充だったら、
というキャラクターが作りやすいが、
その人と自分の中間のようなキャラクターでも良いかもしれない。
ある面はあなたに近く、
ある面はリア充の面があり、
それらが矛盾なく首尾一貫して融合していれば、
その「自分とは違う別キャラクター」は、
架空の世界の、
架空の都合と都合の折衝を、
うまく乗り越えていけるだろう。
物語に出てくる人は、
現実より少し行動的である、
ということは覚えているべき法則だ。
あなたは孤独かもしれない。
作品を見る人も孤独かもしれない。
しかしそれが、
作品が孤独で他人と関われない、
ご都合を描いていい理由にはならない。
孤独な人が孤独を分かち合いたいなら、
同好の集いに参加しなさい。
ストーリーを書くことは、それを癒さない。
ストーリーとは、
孤独な人もリア充も見る、
みんながワクワクして、感情移入できて、
心の奥深くに染み込むもので、
現実でうまくいかない人に対して、
希望を与えるものであるべきだ。
2018年08月03日
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