親指シフトを始めたのは、
長年の謎、「指がしゃべる」という感覚を理解するためだ。
ちょっとわかってきた。
結論から先に書くと、「しゃべる」と「書く」を分離していない人は、
指がしゃべる感覚はいいかもしれない。
僕は異なる感覚で書いているので、
親指シフトはむいていないかもしれない。
親指シフトを打って行くときに一番大事な感覚は、
「一音一打」だと思う。
拗音とか外来音とかあるだろ、
という細かいツッコミはおいとくとすると、
ローマ字にはなく親指シフトにある独特の感覚は、
一音一打の一対一対応である。
僕は以前、
脳内発声がカナ入力では存在せず、
ローマ字入力では存在する、
ということを書いた。
これは人によるだろうということも書いた。
カナ入力である薙刀式がよいのも、
脳内発声無しで、
脳内の文字が直接ディスプレイに出るから気持ちいいと考えている。
しかるに、
親指シフトをやっていくときに、
そのやり方ではあまり快適でないという感覚がある。
で、一音一打を意識すると快感があるということが分かったので、
そのことについて書くことにした。
具体的にいうと、
脳内発声を伴うと、
親指シフトには独特の感覚が来るようになる。
イメージはこんな感じ。
脳から音を発声させ、
架空の場所にためる。
ためたものを、
テープ起こしのように出力していく。
ローマ字の時は、ためたものと手の動きが違う。
親指シフトのときは、
一音ずつ一動作でディスプレイに落ちていく。
その快感。
脳内発声のリズム単位と、
合わないのがローマ字、合うのが親指シフト、
といったところか。
脳内にためたなにかを、喋る代わりに指が一対一に対応し、
口の代りになっているような感覚が出来上がる。
これが「指がしゃべる」という感覚のような気がする。
これは指がしゃべる速度=分速180カナに到達しなくても、
ある程度自覚出来る感覚だ。
あとはこれを高速化すれば、
ほんとうにしゃべる代わりに指を動かしている感覚になるんだな、
という予測ができた。
しゃべる、という音声動作がポイントで、
脳内発声との一対一対応が、
ローマ字にはない快感だ、
ということ。
そしてこれがわかると、
親指シフトはとても快適で、
しかも多少遅くてもローマ字より快感である。
ローマ字が一対一対応でないゆえにね。
シフターの「脳内ローマ字変換」とは、
この手間の部分を言っている感覚だ、
ということが生理的に理解できた。
Qwertyローマ字だろうが行段系だろうがそれは同じで、
脳内にためた何かを、
音の代りに一動作ずつで出していく、
ということは、
親指シフトにしかできないことのような気がする。
他のカナ配列ではどうか?
飛鳥や下駄の経験では、そういうものが僕にはなかった。
もともと僕には脳内発声がなく、
それがカナ入力のいいところだと思ったくらいだ。
だから薙刀式においては、
脳内発声なしで単語単位で一気に運指できる、
「一筆書き」に指がなるような配列の工夫をしている。
「音との一対一対応」などどうでもよくて、
「概念と運指単位の一対一対応」に僕は興味がある。
しかし親指シフトは違った。
運指が悪いなあ、と思う箇所が、
薙刀式から見るとたくさんあった。
単語単位での運指は、
ぶちぶち切れる感じがある。
しかし脳内発声をして、
脳のどこかにためて、
それを変換していくような感覚だと、
なかなかによい配列であることがわかった。
テープ起こし、と表現したのは、
一定の速度でやるのが一番その快感が掴みやすい、
ということを言おうとしている。
逆に僕は、脳内のどこかにためていない。
芋づるのように概念が湧き出してくる感覚が文字を書いている感覚である。
つまり、僕は文字を一連の線で考えている。
線というか、塊-塊-…という、粗密のある芋づるみたいな。
親指シフトは、
一定速度を処理する、一対一で打って行く感覚。
そうする限りにおいては、
なかなかの効率の良さを叩きだしているような気がした。
これは思考の様式や、文字をどう書くか、
に関係している感覚だと思う。
僕は脳内発声無しで、
文字を概念の集合として、集合単位をひと筆で線にしたい。
(その点、一文字が一概念になっている中国語に合理性があると考えている)
親指シフトが向く人は、
脳内の言葉をどこかに一回ためて、
それを音声変換すればしゃべることに、
打鍵変換すれば文字になるような人だと僕は感じた。
僕は手書きのときにも、
薙刀式同様脳内発声がない。
ローマ字入力のときには脳内発声があり、
それがやかましくて手書きを重視していた。
下駄配列を触ったときに脳内発声がないことに気づいて、
自分むきのカナ配列を作り始めた経緯がある。
手書きのときに脳内発声があり、
ローマ字でもカナ入力でも脳内発声があるような人は、
親指シフトが向いているような気がする。
それは文字を書く人の、
どれくらいの割合なのか見当がつかないけれど。
たしかに親指シフトは、
脳内にためたアレを一対一で落としていく快感がある。
しかし僕にはその快感は、不快である。
僕が書くという行為はそれではない。
脳内にアレをためること自体が不快だ。
言文一致運動は、親指シフトに関しては成功したのではないだろうか。
しかし「書かれた文章」と「言うこと」には、
大きな差があると僕は考えていて、
だから親指シフトは僕の要求を満たさない、
というのが第一次的な結論だ。
これ以上親指シフトを試すかどうかは、
あとあと考えたい。
別の領域がこれ以上あるかもしれないので、もう少し続けることにするが。
(所詮は非純正のキーボードによるエミュレートに過ぎないが)
ひょっとすると、
「言うことと書くことがほぼ同じ」
だとほとんどの人は考えているのかもしれない。
僕はそうではないと考えている。
逆に、言うことが書くことのようになり、
僕はよく理屈っぽいと言われてきた。
トークが苦手なのもずっとコンプレックスだった。
表情で語るのも苦手で、
理屈があっていれば表情なんてどうでもいいと思っている節がある。
逆にトークが上手い人は、理屈より表情で誘導するよね。
それと配列の関係が対応しているように思う。
親指シフト(ニコラ配列)がいいと思う人は、
しゃべりが上手い人(苦にならない人)かもしれない。
(同様の親指シフト機構をもつ飛鳥配列を触ってみた感じ、
運指効率がよいゆえに塊が一気に打てる感じがした。
それは概念を一筆書きにする、書く感覚に近いと思った。
残念ながら飛鳥は僕の指に合わなかったので、
それ以上の分析はできていない。
毒を喰らわば皿まで、次は新下駄を触ってみるかも……)
そうそう、速度の件を追記しておく。
親指シフトが速い配列であるとは思えない。
運指の軌跡がブチブチ切れるから、
滑らかな軌跡を描いていない。
ただ何年もやっている人なら、
それも込みで運指が滑らかになっているから、
専門の人は速く見えるんじゃなかろうか。
比較対象をqwertyローマ字にすれば、
多少は速くなるだろう、ぐらいの期待値のような気がする。
(アクション数が1/1.7になるし、
脳内から一音一打で出していくから、
手も脳も楽になるとは思う)
2018年08月10日
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