2018年08月11日

入り口を間違える

稀によくあること。
先日書き始めた小説の冒頭、4000字くらいを思い切って捨てた。

冒頭は、本当は何をしなければならないか。


最初にしなければならないことは、
おそらくたったひとつだ。

ツカミではない(派手なツカミは、
セカンドシーンでも可能だ)。

設定でもない(ただの説明は退屈だ)。

主人公中心の何かである必要もない。


テーマの暗示だと僕は考える。



もっとも、「この作品のテーマは○○です」
なんて言うのはダサい。
論文や説明文なら、
サマリーを最初に示すことは重要だが、
物語はそうではない。

何故最初に結論を出す必要があるかと言うと、
「この先全部を見る価値があるかどうか」
を決めるためである。

文章や映像は、
最後に来た時にはじめて価値が決まる。
落ちがどう見事に決まり、
どうやってテーマに落ちているかが勝負だ。

ところで、どう見事にテーマに落ちているからといって、
そのテーマ自体に価値がないなら、
あまり意味がない。

たいして価値のないテーマに延々付き合って、
ドヤ顔で結論を言われても、
ああ損したと思うだけだ。

テーマ(結論)そのものに価値がなければ、
作品の価値は「出来がいい」だけになってしまう。
出来が悪くたって心に響く作品はたくさんある。
出来がいいに越したことはないが、
それよりももっと大事なのは、
結論に価値があるかどうかだ。

教訓を残す物語が一定の価値を得るのも、
教訓には価値があるからである。


どんなストーリーにも結論がある。
「この話に結論はない」という結論を含めるとすると。

で、
その結論に価値がありますよ、
と最後まで価値があるとプレゼンするのが、
冒頭だということだ。


論文や説明文なら、その価値を最初に短く示す。
物語の場合、
それを読み解くことも楽しみであるから、
明示するのは無粋だ。

しかし、暗示する。

暗示することで、結論を匂わせる。

この物語に最後まで付き合うと、
Aのような結論になりますよと。

そのAに価値や興味を見出せるから、
人はその先へ進むのである。


その暗示はどうすればいいか。

ポピュラーなのは、not Aからはじめることだ。

Aじゃないなんてひどい!から始めれば、
ラストはAで終わるのだろうと予想できる。
not AからAへの変化は真逆でわかりやすいし、
その反転はダイナミックだ。
ということは見事に駆け上がるハッピーエンドが期待出来るわけだ。
(期待させといて出来ていない不良品もあるが、
ここでは置いておこう)

Aをイコンとするような一枚絵をつくり、
そこからはじめる象徴法もある。
ラストシーンはその絵にもう一度戻るか、
それと似た別の絵でAになった、と意味できる。

これを応用すればnot Aの絵から始めて、
同じ構図だけどAになるような絵で終わると、
分かりやすいということがわかる。
使用前使用後のペアになるわけだ。
これをブックエンド法ということは以前にも書いた。


どんなパターンでもいいけど、
大概は上にあげたものに戻ってくることになる。
逆にこう始めてしまうと決めて書くと、
強力であることが体験できるよ。


さらにこれを、
なるべく主人公を絡めるとか、
説明も込みにするとか、
していくと、
物語の冒頭になっていく。


つまり、
どんな魅惑的なオープニングだったとしても、
最初に結論を出していないものは、
付き合う価値が見出せない。

そして、その結論がおもしろいと思うから、
最後まで付き合おうとするのである。


そもそもその結論って魅力あるんだっけ。

冒頭を考えることは、
そこからやらないといけないんだよね。
posted by おおおかとしひこ at 18:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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