物語は現実に立脚している。
リアリティとか、
「これするならこっちを何故しないのだ?」というツッコミなどは、
現実のこの世界と比べているわけだ。
しかるに、物語を書く人は、
あまり現実の経験がないかも知れない。
つまり、机上の空論になっている、ということかもしれない。
僕がよく出すのは、
「童貞限定のエアセックス選手権」で、
「あり得ない位置におっぱいがある」
ことが頻発したという例。
つまり、妄想は結構なことだが、
それは現実を知らないがゆえの、
甘ちゃんな妄想なのかもしれない、
ということを常に想定しておくべきだということ。
それには、妄想しつつ、現実も取材することだ。
アイドルが描きたいなら、
アイドルを妄想するだけでなく、
現実の人間を描かなくてはならない。
それで幻滅することもあるだろう。
現実とはそのようなもので、
だからアイドルが必要なのだ、
という逆説もあるということを理解しなくてはならない。
ファンタジーがなぜなくならないか、
というと、現実逃避が人には必要だからだ。
しかしその現実逃避は、
現実に立ち向かえるだけの力を持っていなくてはならない。
現実を前にして簡単に折れてしまう、
「あり得ない位置の妄想おっぱい」であってはならない。
「正しい位置のおっぱい」でありながら、
ファンタジーにならなければならないのだ。
つまり、物語というファンタジーは、
妄想と現実を、
両方満足させるものでなくてはならないのだ。
「ファンタジーだからいいんだよ」
と言い訳して逃げる人がいる。
その人は、あり得ない位置のおっぱいを笑ってはいけない。
モノがSFとか中世ファンタジーならば、
まあこんなもんか、というスタンダードがあるから、
それに従えばいいだろう。
(たとえばスターウォーズとドラクエとかか)
しかし現実を舞台にしたものでは、
現実のリアリティはもっと強くなる。
おっぱいの位置があっていればよいだけでなく、
固さや柔らかさや感度などの、
もっと精度の高い感覚が必要になってくるだろう。
あなたの妄想が机上の空論でないことは、
どうすればわかるのだろうか。
他の人にアイデアを話すことで、
多少判明することがある。
客観性、という言葉でくくれるが、
もうすこしひらいて「共有できるリアリティ」
とでも呼んだほうがいいかもしれない。
話して違和感がない程度にはリアルで、
机上の空論ではない、を確認することが出来るので、
アイデアを思い付いたときは、
他人に話してみるのが一番よかったりする。
ツッコミは、大体似たようなところに入るものだ。
それは大体同じ世界に生きているからである。
同じ文化を共有するからには、
同じ世界のリアリティを持っているだろう。
逆に我々の社会に黒人はいないから、
いる世界のリアリティとは、また違っている。
銃がある社会のリアリティは僕らはしらないし。
また、ネットのリアリティをご存じない世代の人もいる。
逆にネットなしのリアリティを知らない世代もいる。
あなたの設定した問題と解決法、その手順に関して、
机上の空論になっていないだろうか。
童貞がおっぱいの位置を間違ったまま、
何故かイカせることに成功している、
駄目な空想物語になっていないだろうか。
あなたの妄想を、
1万人が共有する。
10万人が共有する。
100万人が、1000万人が共有する。
それが物語だ。
1000万通りのリアリティにさらされても、
なお机上の空論になっていないものが、
よくできたストーリーというものである。
つまりそれは強靭な妄想だ。
(宮崎駿の強靭な妄想力は、
地に足のついたアニメーション力によって支えられている。
走る時の重心やタメや視線や風などの、
細かいディテールは全部本物だ)
そして、よくできたストーリーというのは、
現実でありそうなのに、
なかなかないファンタジックな面も同時に持つ。
そうでないと妄想として楽しくないからである。
そのために物語はひとつだけ嘘をつく。
その仮定を認める限り、
すべて机上の空論になっていない、
地に足のついた強靭な妄想。
それが物語という詐欺かもしれない。
(「私はアラブの王族である」という嘘を認める限り、
いろいろな辻褄が全てあう、結婚詐欺と同様の構造なのだ。
それは、「この世界はビッグバンより始まった」
という仮定を認めてすべてを説明しようとする、
科学と同じ構造でもある。
ビッグバン仮説はまだ仮説ではあるが、
否定する材料が見つかっていない段階ではある。
「私はアラブの王族である」という詐欺は、容易に否定材料が出そうだ。
物語の嘘は、「それを嘘とする」という共犯関係によって成立する契約で、
そのあとの全ては現実でなければならない)
2018年08月12日
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