指運びを重視する、運指を重視する、
というのは当たり前のようでいて難しい。
考え方がひとつではないだろうからだ。
薙刀式の運指は、
「指が途切れないこと」
みたいな感覚を一番重視している。
たとえば「しょうがない」。
(RI)L(FJ)MK ()は同時押しの意味。
指が連続して隣に次々に動いていく様が分かるかと思う。
これが「アルペジオ重視」「一筆書き」のように、
と言っている薙刀式の代表的な運指だ。
従来の運指理論ではよく嫌う同指縦連、
この場合JMも薙刀式では良しとする。
それは「軌跡が途切れるよりも、つながったほうがいい」
と考えるからである。
従来の運指理論では、人差し指を連続二回使うことを嫌い、
どっちかを左手の指に回すことが多い。
JMの代りにJSとかJDとか。
そうすると「軌跡が飛んでしまう」と、薙刀式では考える。
薙刀式の運指上の特徴は、
なるべく見た目でキーが隣同士、斜め移動でつながっていくことだと思っている。
それは、筆で書いていくことに近いと思う。
それが何がよいのか。
たとえ運動特性上不利だとしても、
「言葉と運動単位がひとつになっている」
ことを重視している、と僕は考えている。
いや、僕の生理上の欲求のもとに薙刀式は並べられてきたのだが、
言葉にするとこうなんだなあ、
ということにようやくたどり着いた、というべきか。
だからなるべく指が飛ばずに、
隣の指に、隣のキーに、
アクティブな部分が動いていく感覚があると思う。
もちろんそれを100%乗せることは原理的にできないから、
なるべくそうして、無理のある部分は左右交互にしている。
で、悪運指をなるべく避けて、
なるべくつながるようにして、
現在に至るわけである。
何が大事かというと、
「言葉の単位と、指の軌跡の単位が合うこと」
だと僕は考える。
僕の脳内発声の様子をなるべく効率的に指の運動に変換した結果、
言葉の単位(これは音声のように一文字一文字出てくるのではなく、塊として存在する)
と指を合わせる生理が働いたのだろう。
脳内発声がある人は、
親指シフトの運指のように逐次で処理しているのかもしれない。
しかし脳内発声がないということは、
概念単位で存在するから、
それが運指の一単位になりたいんだよね。
そんな感覚。
そして、
「どの言葉を重視して優先的にいい運指にするか」は、
その作者のボキャブラリーや判断力に依存することになるだろう。
もちろん統計の参考もあるものの、
最終的には作者の感性で決まるからね。
飛鳥配列の場合、
僕と言葉のチョイスが違っているような感覚があって、
それでも薙刀式のような、
運指単位が言葉の単位になっている構造を感じることが出来た。
その感覚にくらべて、
その後ためした下駄配列では、
もとになっている新JISの基本設計思想にそういうものがないのか、
言葉単位と運指単位のつよい結びつきはなかった。
(ばらばらと指が動いていた記憶はある)
一部のアルペジオが気持よいので、習得や運用は楽だった。
親指シフトだと、
そういうつながりを感じるのが小指への接続くらいしかなくて、
豆を拾っている、点の感覚になっていた。
(練度が足りなくて、そこどまりだった可能性もある)
新下駄はまだ未知数。
物書きというのは、言葉を単位に生きている。
統計で良く出る単位で生きていない。
飛鳥も薙刀式もそういう立場で作っていて、
下駄や親指シフトは、
そうじゃない立場で作っているんだなあ、
ということが分かってきた。
これは、
「指を何を根拠に動かすのか」という、
「動きの意味」みたいなことになってくる。
「その動きは〇〇という概念を表しているのだ」
という、
新しい一筆書き言語を、
僕は作っていただけなのかもしれない。
手話は、そうなっているんだよね。
音の一対一対応じゃなくて、
ひとつの動きがひとつの概念に対応している、
一種の外国語なんだよね。
(手話でケンカしている二人を見たことがあるが、
力強くめっちゃ速く手や腕を動かしていた。
言葉が身体表現なんだなあと思った)
もちろん50音表現もあるから、
知らない言葉が分からないときはそれで対処するらしいけど。
運指という手話を、
僕は作っていたのかも知れない。
だから指が途切れず、
一筆書きで言葉単位をつづっていくことが、
僕にとって一番重要だったのかもしれないなあと。
だから薙刀式で書くときは、
なるべく運指がひとつづきの曲線になるようにすると、
スムーズに打てるかもしれないです。
よくある機械的な運指の測定方法は、
デジタル的に指の移動距離(ホーム段からの単純な足し算)を測ることが多いけど、
始動、運動、曲線、停止、
という3次元運動に必要なカロリーを、
あんまり計算に入れていないように思う。
僕らの指は機械的に直線、停止、じゃないからね。
武道やダンスのように、
最小の動きが最大の効果になるように、
身体的に洗練されていくんだと思うよ。
(まあそうなると機械的に計算できない、という問題もあるのだが。
モーチョンキャプチャで計算とかできるのかな)
カタナ式も薙刀式も武器の名前を取ったのは、
そういう無意識が働いていたからかもしれない。
動き即言葉という、身体言語を意識していたかもなあ。
そんな洗練も、
もう完成だろ、だってこれ以上ないもん、と思う領域にきていて、
最後の調整中です。
次のv9で完成かもしれない。
(飛鳥の例があるので、
安易な完成宣言はやめた方がいいとは思っているけど)
2018年08月17日
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