2018年08月19日

どうであるかが描写、何をするかがストーリー

時間的変化を伴わないものが描写。
時間的変化を描くのがストーリー。

しかし微妙なのは、
描写をするのにかかる時間。


たとえば。
彼女が着てきた勝負服を、足元から頭まで。
どいつもこいつもダメそうな奴らが集まった。
家が爆発した。

これらは、「把握するまでに一定の時間がかかる」
ことに注意されたい。

しかし一定の時間がかかろうが、
その間ストーリーは進んでいない。
観客が把握するまで、
ストーリーが待ってくれているだけのことである。


これらは簡単な例だから分かるかも知れないが、
ついこれに似たようなことをやってしまってはいないか?


たとえば、

新キャラが出てくる。その設定を一通り説明した。
そしてまた新キャラが出てきて、その設定を説明。

新しい場所にいき、そこの説明を一通り聞き、
そのサービスを体験する。

異変が起こり、事態を把握。
またまた異変が起こり、事態を把握。

今何を思っているか、延々と語る。


この間ストーリーは進んでいない。
間に移動を含むと画面が動くから、
ストーリーが進行したような気にはなる。

しかしこれらは描写を一定時間かけただけで、
時間は進んでいない。
時計は進んでいても、
ストーリーの時計は進んでいない。



それがどういうものか、
そこがどういうものか、
その人がどういう人か、
そのような描写は面白い。

しかし、描写はストーリーではない。

あなたが描写に夢中になっている間、
観客は待ってくれている。

さあ次どうするのか?と。


ストーリーを進めよう。

あなたが夢中で書いているのは、
時間停止AVではないだろう。

何かが起こり、行動する。
行動だけが、ストーリーの時計を前に進める。

自分の書いているものは描写か?ストーリーか?
前に進んでいるつもりで、
停滞しているのは、
描写ばかりしているからだ。
posted by おおおかとしひこ at 16:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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