2018年08月20日

そうそう、こういうのが欲しかったんだよ

商売とはなんだろうか。
客が欲しいものを売ることだ。

客が欲しくないものは買わないし、
いらないものを売られてもガッカリするだけだ。
(場合によっては怒り、縁を切り、
あまつさえ復讐するだろう)

今映画界は、
客が欲しいものを売っていないように思う。


今映画界は、
客がほんとうに何を欲しいか、
分かっていないように見える。

似たような企画の横並び、
似たようなキャストの順列組み合わせ、
どこかで見たものの焼き直し、リブート。

それがほんとうに客が欲しいものか?


「わたしは客が欲しいものがわかる。
しかし会社や投資家が、
それを作らせてくれない」
というプロデューサーの嘆きは、
ここ10年腐る程聞いてきた。

会社や投資家を説得するために、
「売れるビジネスモデル」を資料として作ることになる。
それはつまり、
「かつて売れたものを真似しましょう」しかない。
「それで売れるのか?ファクトは?」
と聞かれるからだ。
未来のファクトが今あるわけねえだろ。

売れるものだけを売れ。
会社や投資家はそう言う。

売れないものを作って損することを避けている。



八百屋に例えよう。

こういうのが欲しいんだよね?と仕入れる

こんなのがあるんだ!
そうそう、こういうのが欲しかった!

じゃあこういうのはどうだい?

いいね!

八百屋拡大、全国チェーンに

こういうのはどう?

イラネ

これは?

イラネ

前売れたこれなら売っていい?

前ほどは売れないがしょうがない

どうしましょう、売り上げが下がっています

損するやつは止めろ、売れるやつだけに絞れ

前売れたこれならいいですか?

よし、売れ

これも前売れたやつですよ?

よし、売れ

どれも似たものだ。イラネ←イマココ


八百屋が、いつのまにか同じ野菜ばかりになってしまった。
前は、
こんな野菜がある、こんな野菜がある、
と発見の連続だったのに、
それが楽しかったのに。

いつのまにか、
売れない野菜は売るな、
売れる野菜だけ置け、
ということになり、
棚が皆同じになってしまった。

あの八百屋?いかないよ。
だってつまんないもん。←イマココ


一方、
新しい野菜を生産する農家はずっと暇を出され、
新しい野菜の作り方がわからなくなっている。
新しい野菜を作ったことのない人が、
野菜畑で中堅になってしまった。

新しい野菜って作れるんですか?
って言う人もいるかもしれない。


さらに一方、
何が売れるか分からないから、
全部の野菜を集めましょう、
というのがツタヤ、ネットフリックスなどだ。
ツタヤは物理運動がめんどくさく、
ポチる世代のネットフリックスに押されている。

野菜は無限にある。

そしてそのうち気づくだろう。
「おれ、何が欲しいんだっけ?」と。

まだそうなっていないが、
いずれそうなるだろうと僕は予想している。



何が問題だろう?


最初の小さな八百屋に戻ろう。
その八百屋は毎日野菜を食べている。
その中で知り得た、みんなが知らない野菜を仕入れる。
こういうのがあるんですよ、
知らないでしょと。

知らない野菜を教えるわけだから、
食べ方や味付けも教えるところから熱心にやる。
それで新しさや良さが分かれば、みんな買い始める。
次々に新しい野菜を紹介する。

こうして事業になったわけだ。

ところが全国区になってから、
八百屋は野菜を食べる暇がなくなったのだ。

野菜を食べる人が野菜を紹介していたのに、
野菜を食べない人が野菜を売るようになったのだ。

そんな人の紹介する野菜が、うまいわけがない。


「売れてるから売ってるんですよ、食べたことないけど」
という八百屋が、現状だ。


「カメラを止めるな!」が食べたことない野菜だって?
バカいうな。
「運命じゃない人」「アフタースクール」「鍵泥棒のメソッド」
があるじゃないか。アンジャッシュのコントも多数ある。
この野菜の味わい方を普及させなかったくせに、
今更同じものを提供してどうすんの?

しかも全国公開は、
「野菜の食べ方」からじゃなくて、
「今ひそかに売れてる野菜、大々的に売ります!」だ。

やっぱりこの八百屋は、野菜を食べていない。


野菜を作って食べて、
喜びも悲しみも分かち合っていない八百屋が、
野菜を売れるわけないじゃんか。


長らく通う店がある。
最近味が落ちた。
「最近味が落ちたね」といった。
仕入れがなくなってしまったので、
やむなく変えたのだそうだ。

初めてそれを食べた人はこんなもんかと思うかもだが、
僕はもう物足りない。

その店ではそのメニューの他のものを注文するようになった。

もし他のものも凋落していったら、
その店に通わなくなるだろう。


幸い、その店の主人は、
別の美味しいものを勧めてくれる。
自分の店で出すものの味を知っている。

僕の好みでなかったとしても、
お口に合わなくてすいませんとは言うけれど、
決して不味くてすいませんとは言わない。

自分で食べて、味を知っているから、
悪いものは出していないという自負がある。


僕はそれが商売だと思う。


規模が全国だろうが、
難しい金融的なことがあろうが、
リクープラインだろうが、
食べたことのある野菜を売るのが、
八百屋の仕事だと思う。

どうやってこれは食べるの?
おひたしにしてゴマと醤油がうまいんですよ。
炒めてもいいな。酒とは合わないから気をつけて。

こう答えてくれる八百屋なら、
その八百屋から試し買いする。
そしてその通りだったら、
その八百屋を信用する。
その人が勧めるなにかなら、また試そうかなと思う。


僕はこれが商売と客の関係だと思う。


会社組織だろうが製作委員会的複合体だろうが、
「法人格」というひとりの人だ。

その人が勧める映画は、
最近何も面白くない。




「今日何食べたい?」
「なんでもいい」
「じゃ○○は?△△は?」
「どれも違う」
「じゃなんだよ?」
「わかんない。でも『そうそう、これが欲しかったの』を頂戴!」
「無茶苦茶な!」

これが現在だ。

けれど、八百屋なら、
「これうまいと思うんだけどどう?」
と言える。

今まで試したことないだろうけれど、
どこにもないメニューだけど、
と言って出すだろう。


今ないものが新しいおススメで、
人はその知らない「そうそう、これが欲しかった」を、
当てて欲しいはずだ。



八百屋や僕の行く店はそうだ。


映画がそうなっていないのは何故か?



僕にはまったく分からない。



僕は自分が面白いと思うものや、
みんなこういうのが本当は欲しいんだよね、
と思う企画を出している。

でもそれは、過去に売れた事例がない、
という理由で、
何段階目かの時点で却下され続けている。


これが日本を覆う不況の正体であることは、
みんななんとなく勘付いている。



一方、自作キーボードが水面下で爆発的広がりを見せている。
どのキーボードも、
「そうそう、こんなのが欲しかったんだよ!」
に満ちていて楽しい。
作者たちはキーボード使用者だ。
だから、「こういうのが欲しい!」が芯にある。

今の映画界は、
キーボードを使ったことのない人がキーボードを作って棚に出している。
野菜を食べない八百屋が野菜を売っている。




どこに行けば「そうそう、これが欲しかった」
があるのだろう。

今僕を夢中にさせているのは、少なくとも今の映画ではない。

そのうち興奮するのをやめるのだろうか。
僕は映画でションベン漏らすほど興奮したいのに。
posted by おおおかとしひこ at 22:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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