2018年08月21日

再び「カメラを止めるな!」に関して書こうとしたら

このようなことが報じられていた。
http://news.livedoor.com/lite/topics_detail/15186450/
記事を読む限り、こりゃアウトだ。

しかしその「原作」たる「GHOST」と、
アンジャッシュのコント、
内田けんじの「運命じゃない人」「アフタースクール」「鍵泥棒のメソッド」
との類似性はどうだろう?


「カメラを止めるな!」の特殊性は、
皆がネタバレを避けることである。
だが構造的なことに関しては、
ネタバレしても大丈夫だと思うのでこのまま続ける。

「前半に何かおかしなこと。
後半に実はアレはアレだったのだ!
と何もかもわかる」

という構造に関しては、
ざっくり言うと複線と解消の関係だ。

これ自体は物語の基本ですらあるので、
これが糾弾やネタバレのポイントではない。


前半に劇中劇を見せ、
後半がそのメイキングドラマ、
という時系列と劇中劇の構造が、
この映画の特殊性である。

内田けんじやアンジャッシュの一連の作品は、
登場人物のオンタイムのことに関して、
前半後半の構造を持つが、
「カメラを止めるな!」は、
「劇中劇(ゾンビ映画)」が前半になる。

「劇中劇を役者がアドリブで切り抜ける」
というアイデア自体は実に演劇的な発想で、
これは三谷幸喜の得意技でもある。
だから「GHOST」は演劇として作られたのだろう。
「これを映画でやれないかな?」
が出発点であったことは容易に想像できる。


実に残念だ。

「○○を今回のこれでやれないかな?」
は、
発想が安易だ。

だって最初からパクリなんですもの。


僕は、最初はパクリだったとしても、
自家薬籠中のものになるまで練り倒して、
「最初のものとは似ても似つかないオリジナルになる」
ことを尊ぶ。
藍は藍よりいでて藍より青しだ。
「確かに似ているがここがオリジナルである以上、
もはやこれはオリジナルであると言って良い」
になっていれば問題がない。

問題は、
じゃあこの映画のオリジナルってなんだ、
と考えた時、
「ゾンビ映画のB級と、それを取り巻くB級なスタッフという、
今の日本映画を象徴する舞台(とそれを利用した小ネタ)」
と、
「映画は素晴らしいオモチャだというテーマ」
であると考える。

笑って人を前向きにする、
というお題目は素晴らしいが、
実質できていないことについて、
長く批判を過去にした。


さて。


訴訟は、
内田けんじの一連の作品や、
アンジャッシュのコントも類似構造と考えるだろうか?
たぶん考えねえな。

これらを比較し、論じることが出来るのは、
脚本をちゃんと読めて比較できる人だけだ。

評論家の何人にそれがいる?

指原莉乃(ブームの火付け役の一人)が出来るか?
指原莉乃が、
「GHOST」を見てなくて褒めてしまいすいませんでした、
と謝るのか?

評論家ならば、
先行作品との類似性を指摘できて当然だ。
演劇がテリトリー外だとしても、
内田けんじの一連の作品や、
三谷幸喜の作品との類似性を、
指摘できないはずがない。

そして、
それらに比べて、
中身のないペラペラな映画であること自体は、
指摘できるはずだ。


僕は、
骨太な中身のオリジナリティがあれば、
構造を借りたっていいと思うんだよ。

形式を組み合わせるのが文学なんだから。

僕は、
この映画が、
形式だけ借りて中身がないことに怒りを覚えていて、
しかもネタバレ禁止にしたことで、
この「構造がすごい」を温存して、
隠蔽していることに怒りを覚えている。

ホンモノを追求した娘は、
ゾンビ映画にホンモノを見たか?
否だ。
詰まらないホンばかりやっていた主人公の監督は、
今回で快作を作ったか?
否だ。

係りと結びが出来ていない。
だからこれは映画として不備である。

じゃあ何が面白いのか、
と言われれば、
前半と後半の構造だという。

そりゃあ訴訟起こされてもしょうがないよね。



さて。


指原莉乃が褒め始めたあたりから、
マッチポンプの匂いがした。
柴咲コウが帯を書いたことで売れたセカチュー以来、
これはプロモーションの一環の手法として、
広く認知された。
芸能人にギャラを払うだけだから、
メディア代の数千万に比べれば、
桁を一つ二つ低く設定できる。

そしてレギュラーを持つ芸能人や、
インフルエンサーに褒めさせて、
プロモーションを張るステルスマーケティング
(それがプロモーションだと言わずに、
自然に褒めている形を取る)が流行する。

これも彼らにギャラを払うだけだから、
メディア代の数千万に比べれば、
桁を一つか二つ低く設定できる。

さて。

このニュースも炎上商法という、
プロモーションの一環かも知れない。
人気が出てパクリだと言われる、
それを見てみようとなるからだ。



そして、
この映画のプロモーションは、
「ネタバレできないけど超面白いんです!
笑って最後は前向きになるの!」
だけで可能だという構造が、
もっとも一連のプロモーションを楽にしている。

多忙な人たちに作品を見てもらう時間がなくたって、
ギャラを払い、ステルスマーケティング出来るからだ。

つまり、
ネタバレ禁止が隠蔽を温存する構造だ。


最近の映画の広告は本当に下手だ。

この映画のキャッチコピーは、
「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」
だそうな。
テーマのことを何も言っていない、
構造のことを言っているクソコピーだ。

「宇宙では、この悲鳴は誰にも聞こえない。」(エイリアン)
「落ち込んだりもしたけれど、私は元気です。」(魔女の宅急便)

などの名作に比べ、なんと劣ることか。

異常なる孤独と奮闘、
魔女のゆれ動く少女心、
それらから暗示される、
自力解決の凄まじさや、
前向きに生きていこうとする軽やかな人生観という、
テーマを浮き彫りにしている感覚が全くない。

西原理恵子は、
「いい絵からは風が吹いている」という独特の表現をするけれど、
僕はコピーから風を感じるかどうかが、
その映画のコピーが優秀かどうかの判断基準だ。

風を感じるとはつまり動きを感じることで、
なぜ動くのか(動機)、
それはどうなるのか(結末の予感)、
その動きはどういう意味があるのか(テーマ)、
が練りこまれているかどうかで、
そしてそれが「新しい風」になるかどうかである。

「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」
は構造のことを言っていて、
staticなことで、動いていない。
だから風を感じない。

風を感じるコピーが書きようがないからだ。
だって本編に風に必要なものが揃っていないからだ。
だから構造のことを書くしかないのである。


で、その構造のことが訴訟に入るという。



映画本編同様、
全てがマトリョーシカのようだ。

で、玉ねぎの芯には何が入ってるんだっけ?

何にもないこんなものに頼らなくてはいけないほど、
護送船団方式は腐っているのかな?
posted by おおおかとしひこ at 10:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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