2018年08月22日

日本は村社会で運営してきた

その共同体に所属するか、しないかがビジネス。
契約上とか合理とかが関係ない、
身内か身外か、という社会。
身内をかばって身内の幸せをもたらし、
身外は最初は敵かもしれないが、
そのうち講和して身内にするというシステム。
それが日本のビジネスのやり方だったのではないか。
それが崩れ去ろうとしている。
ネットという黒船によって。


たとえばテレビがそうだった。
ネットのないころは、
テレビこそ日本の社会であり、
そこの成員(タレント)は不祥事をしても、
禊をすれば元に戻ることが出来た。
それは村社会だからだ。
村では成員が欠けることはあってはならない。
仲間で、働き手で、身分が保証されている。
終身雇用制社会は、
その村に一回は行ったら一生その村で生きていくことだった。
テレビは村であり、その社会に入ったら、
一生村が人生を保証してくれた。

映画もそうだった。
同じキャスト、同じスタッフ、同じ宣伝のやり方で、
ずっと同じ村が回っていた。
同じ村があって、
それ以外の村がないならば、
その村は一生安泰だ。

そういう村だった。

でもネットが、海の向こうにも、
違う村があることを教えてしまった。

違う村とこの村とを行き来することで、
この村の特殊性とか、
向こうの村のいいところとかを、
知ってしまうことになった。

アマゾンが、商店街村を壊した。
もともとイオンやダイエーが商店街という村を壊し、
それをアマゾンが壊して、
商店街とイオンはいま廃墟に向かいつつある。
村はなくなってしまった。

最近執心しているキーボードでは、
日本のキーボードメーカーは、
この村での営業しか考えていない古い体制だから、
このキーボードに不満がみんなあるのに、
新製品を開発しないから、
不満のある人たちがアメリカから輸入したり、
あまつさえパーツを輸入して自作を始めている。
しかもメーカー村の人たちは、
そのことを知りもしない。

同じことが映画でも起こっている。
ネットフリックスさえあれば、
映画館も、ツタヤも、地上波放送の映画もいらないかもしれない。

我々は、ここの村以外に村があることを知ってしまった。

ネットのサービスによって、
開国が強制的に行われたのだ。

これはいいことだろうか?

自由化は一見いいことのように思える。
安く品質のいいものを享受できるし。

しかし、それで潤っていた、
国内の業者村を潰すことになる。

商店街はイオンにつぶされ、
テレビはYouTubeにつぶされ、
映画館はネットフリックスにつぶされ。

不当な業者を潰すことにおいては役に立つだろうが、
まともな業者もつぶれてしまう。
村で金が回らなくなるからである。

たとえばDTPの普及により、
町の印刷やさんがほとんど壊滅した。
小さな工場が沢山あった日本から、
小さな工場がなくなった。
みんなMacでポスターを作るからである。

印刷屋さんに納品していた紙屋さんやインク屋さんも廃業だ。
カッターや定規などの納品もなくなるだろう。

一頭のクジラが死ぬと、それにまつわる生態系が崩れるという。
村に住む人々が、全滅するわけだね。

不当な業者を撲滅することは正義のように思える。
しかしその毒が、村をも根こそぎ全滅させてしまった。

その焼け野原が、今の日本に僕は見えている。

回っている仕事がない。
村で金が回らない。
上級国民だけが節税して、庶民はあえいでいる。

映画産業、テレビ産業は、
もうその村で作れなくなってきているから、
どんどんネットドラマ、ウェブ映像をつくらないと死んでしまう。
しかしその村で回る金は少ないから、
どんどん縮小していく。

村しかなかったころは、
それしかなかった。
だからみんなの金がそこで回っていた。
別の村、別の村、別の村が出てきて、
小さな村の集合になってしまい、
大きな金が回っていない。

それが今の日本だ。

そうなると分かっていなかった東宝は、
日本中に映画館村をつくってしまった。
東宝シネマだ。
そこで暮らす映画館の運営者、宣伝担当、
などを食べさせる、
映画そのものがなくなりつつある。

ないから、ヒットしたという噂の、
300万の映画をかけて、
スクリーンが遊んでいることをごまかすしかない。

日本映画は死に体か?

面白い企画を出して、
自社でプールしたお金で作り、
回収していくことはもうやっていない。

お金を借りられる素人に、
お金を出してくれる企画を出して
(それは原作ありきとか芸能人ありきとか、
数字=ファクトを事前に見積もれるものだけだ)、
回収できるものだけを作っている。

それはクリエーティビティの死である。

村だったころは、
多少失敗しても村全体でカバーできた。
禊さえあれば復帰できた。

今は、禊なしの即死である。


日本は長い時間をかけて、
サステナビリティのある村社会をつくってきた。
今、村は崩壊して、
荒野と死の世界が蔓延している。

村を鎖国するか。
荒野で小さな村を作るか。
それしかない。

映画は、もう鎖国体勢に入っている。
テレビはクオリティ的にはもう荒野だろう。
CMが文化を作っていた時代なんてもう15年前かもしれない。
イオンはつぶれ、ツタヤもつぶれ、
私たちの思い描いたバラ色の未来はそこにない。

僕は政治家でもないし、経済評論家でもないので、
なぜこうなったのか、どうやったらよくなるのかを論じることはできない。
面白いことを作ることはできるが、
その金はどこにもない。

嫌なことはたくさんあったけど幸せだった村を、
日本は出てしまった。

次の映画は、どういうものであるべきか?
あなたたちは、それを考えなければ、
プロになることはできないだろう。
(もちろん僕も考えていて、
それは水面下でずっと動いている。なかなか成功しないけどね)

かつてここには村があった。
沢山の人がぐるぐる回っていて、
そこしか世界がないから、
みんなで助け合っていた。
今はネットで注文しちゃえばいいじゃん、
となってしまったので、
この村には人っ子一人いない。

村ではその村の習慣さえ守れば、
新しい住人になれた。
付き合いとか面倒だけど、それさえあれば、
身内になれた。
いま、そういうのがない分、
みんな孤立している。
サステナビリティとかいう輩は、
村のことを知らない、適当なやり逃げビジネスしかしていない。
posted by おおおかとしひこ at 17:00| Comment(3) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昔の記事へのコメントで失礼します。
この記事を読んで、10年ほど前、壁に囲まれた村という設定の物語を考えていた時に漠然と感じていたことに命を吹き込まれた思いがしました。
それと同時に、これはもう日本だけではないのではとも思ったのですが、日本は村社会、というタイトルをされたところを見るに、大岡さんはどのようにお考えなのか知りたく、つい書き込んでみました。
Posted by asu at 2018年12月29日 18:39
asuさんコメントありがとうございます。

日本だけが村社会ではないと思います。
外国の映画などを見る限りそうなんだろうなと想像は出来ても、
リアルなそれは体験してないので、
断言は出来ないので。

村社会を支える動機は恐怖かと思われます。
シャマランの「ヴィレッジ」を見たことないなら、
おススメです。

忖度し続ける話、とか作れそうだなあ。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年12月30日 11:19
ご返答ありがとうございます。
外国の映画にも感触がおありでしたか。
演劇的な手法が元々好きでヴィレッジは3度見直しました。
動機としての恐怖、納得です。
平穏を崩すモノを遠ざけるための仕組み、以前はこれを
閉鎖的=悪いものとみなす視点でしか考えられませんでしたが、
今はより複雑に捉える視点がこの記事により得られた気がします。

映像作品はもとより、もし舞台ものの脚本とか書かれることがあれば面白そうなのでぜひ宣伝してください。
今年は面白いブログに出会えました。どうぞ、年をお迎えください。
Posted by asu at 2018年12月30日 19:03
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