2018年08月23日

第一ターニングポイントは、一幕のクライマックスだ

そう考えるようになって、少し一幕を書くのが楽になってきた。


一幕は全体の文脈でとらえると、
「はじまり」のパートだ。

しかし始まってばかりを描いては出落ちだらけになるから、
一幕は一幕で展開しなければならない。

つまりは焦点が発生して、
「この先この焦点はどうなるのだろう」
となっていなければならない。

そのためには事件が起こり、
それが雪だるま式に広がって行くことが必要だ。

つまりは発端、展開、結末があるということ。

その結末が「完結」ではなく「つづく」になっていて、
それがしかも「本格的ストーリーがこのあと始まるよ!」
という幕切れかつ幕開け宣言であるべきだ、
というのが、
一幕のラスト、第一ターニングポイントの役割だ。


だから、第一ターニングポイントの出口を決めたら、
そこに向かってはクライマックスになるべきだ。

もちろんほんとうのクライマックスは三幕だけど、
一幕の範囲内で盛り上がる部分の、
ピークであるべきだということ。

(勿論ここが一番面白くてほんとうのクライマックスが面白くないなら、
それは早漏にすぎないわけだが)


クライマックスとはどういうことかというと、
これで何か大きなことが決定的になる予感があり、
危険があり、
単独の意思ではない、絡み合った他人の意思が存在し
(コンフリクト)、
行動があり、
覆せない結果が出てしまうということである。

(これはすべてのターニングポイントに共通のことだとは思うが)


つまりは、
やべえ盛り上がってきたぞ、
になるべきだということ。


主人公は何かに大抵巻き込まれる。
自分からことを起こしたとしても、
予想以上の困難が横たわっていて、
必ずそのゴタゴタに巻き込まれることになる。

先手後手を問わず、
主人公は結局何かに巻き込まれる。

最初は逃げるかもしれない。
しばらく調べて、やっぱり逃げるかも知れない。

しかし立ち向かうかも知れない。
しかしうまいこといかず凹むかも知れない。

しかし腰を据えてこの困難を解決しよう、
と決意するのが第1ターニングポイントだ。
ただ思うだけじゃなくて、
心から思うことが大事だ。

人の行動には動機がある。
「よし、解決するぞ」と思うことに、
なるほどそりゃそうだ、と思える動機が描かれているべきで、
だから応援したくなるのである
(感情移入)。


だから、
一幕の中で既に反転があるのだ。
(巻き込まれる受動的なことから、
積極的に解決しようという能動的なことへ)

つまり、ストーリーにおける、
変化が起こっていることになる。

それは「一幕のクライマックスを経験したから」、
主人公が自然に思うようになっているべきだ。


クライマックスは絵的に特別なことをすることが多い。
ビジュアル的にも印象付けるためだ。

だから第一ターニングポイントは、
ストーリーがぐいっと動き、
変化して、印象的な場面になることが多い。


勿論この場合の変化とは、
最後に訪れる永遠の変化=成長と違い、
ちょっとした意識やテンションの変化で、
一時的なものにすぎない。

物語における変化は、何回あってもいい。
その度に説得力があれば何回でもだ。
それら一時的変化を重ねているうちに、
「もう元には決して戻らない」になることを、
永遠の変化、成長と呼ぶだけのことである。


これを小変化までのブロックを計4回やれば、
ストーリーは完成する。

先は長いが、ここでようやく山登りでいう、
「登りの五合目」だ。

だいぶきたと思うよ。

そういう節目には、
なにかしら大イベントになったほうがよくて、
それは一幕でのクライマックスになるということだね。


俯瞰していれば分かるんだけど、
地べたで執筆していてはなかなかわからない。

一幕のクライマックスはなに?
と自分に問うてみれば、
第一ターニングポイントへ向かって書きやすいかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 14:34| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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