僕はこれがずっと不思議だった。
親指シフトがそんなにいいのなら、
みんな転向してもいいじゃないか。
やってみてわかったことは沢山あるのでまた整理して書くけど、
配列転向でいうと、
「Qwertyを捨てて親指シフトにしない人と、
親指シフトを捨てて他の配列にしない人は同じ」
ということだ。
つまり、「配列を変えるのはみんな嫌」
ということでしかないと考えるようになった。
習慣を変えることは難しい。
ダイエット、朝活、資格習得の勉強など、
「何かを獲得するために習慣を変えてまでやること」
は、
殆どの人が成功しない。
人は、今までのことを変えようとしない。
ただそれだけだ。
文字のことでいうと、
「明日から左右反対にします」
と政府が宣言したとしよう。
大混乱だ。
「大丈夫、一ヶ月もすれば慣れます」
と政府が宣言したって、
左右反転する鏡が売られ、
モニタに元の表示がデュアルで出るものが飛ぶように売れるだろう。
なるべく人は元のものを維持しようとする。
それだけのことだ。
仮にその文字左右反転が、
5割効率アップすると科学的にデータが出たとする。
だとしても、元のままでいいやという人が大半だろう。
ジム通いが成人病を○%防ぐのはデータが出ているだろう。
でも誰もやらない。
それと同じだと思う。
人間は、現状維持を最も是とする生き物である。
習慣を変えることの苦痛は、
習慣を変えて得られるリターンより、
遥かに大きいのだ。
もしQwerty配列のまま親指シフトになる装置があったとすると
(そんなものは原理上ないのだが)、
多くの人は親指シフトを試すと思う。
あ、いいじゃんとなり、親指シフトへ転向するだろう。
もし親指シフトのまま薙刀式になる装置があるとしたら、
親指シフターも薙刀式を試すに違いない。
なんのことはない。
「最初に覚えたものを、変えたくない」
だけのことだ。
じゃあ覇権を取るためには、
「最初に覚えるものになる」しかなくて、
JIS化して「キーボードの初期配置を以後統一する」
となった時点で、
親指シフトの滅亡は決まったのだ。
しかしこの場合のJIS規格とは、
ネジの大きさなどを統一するための工業規格であり、
日本語入力のやり方がまだ黎明期の頃であった。
連文節変換はないし、予測変換もないし、
フリックも音声入力もライブ変換もなかったわけだ。
万年筆のペンの角度にJISがあるのか?
鉛筆の太さや細さにJISがあるのか?
JISキーボードの規定は、それぐらい愚かなことだ。
つまり僕は、JISは配列についてはスタンダードを決めるだけで、
基本自由に配列を変えられるとして良いと思う。
そのかわり、配列変更ソフトを義務付け、
キーボードの側で記憶できるようになればいいと思う。
そうしたら、
誰も今のQwertyローマ字なんて使わないよ。
すくなくとも「ー」は動かすし、
FJはホームの位置から追われるだろう。
鉛筆の濃さや長さはJISで決まっているかもしれないが、
太さや削り方や持ち方は、
JISで決まっていない。
それに近いと思う。
勿論いつでもJISスタンダードには切り替えられるボタンがあり、
共用マシンとしては面目を保って保てば良い。
たとえばプロユースの動画編集ソフト、プレミアでは、
ショートカットはすべて編集可能である。
全てのコマンド(数百はある)のうち、
代表的なものやよく使うものをキーに割り付けられる。
デフォルトもあるけど、たいして使いよくはない。
自分用のショートカット設定をUSBに入れて持ち歩いたり、
クラウドに置いてあるプロエディターは多い。
編集スタジオを転々とするから、
朝イチに設定すれば、「いつもの環境」になるわけだ。
たぶんこれが現実の運用に近い考え方だと思うんだけど、
キーボードの配列に関してはそうなっていない。
物理的なキーの配置は諦めるとしても、
(それは自作勢に任せるとしよう)
論理的な文字の配置はいくらでもいじられるようにすれば良いのだ。
親指シフトキーボードの一番いいやつ(板バネ)は、
別に親指シフト配列でなくとも、
なかなかいいキーボードだ。
あのキーボードで薙刀式を打てば、
かなりいい感じになる。
親指シフターが頑なに変えようとしないのは、
つまりは旧来の習慣を変えたくないだけだ。
親指キーボードを捨てたくないし、
親指配列も捨てたくないだけのことだ。
その本音を、Qwerty批判JISカナ批判の鎧で、
覆っているだけなんじゃないか。
一方、Qwerty派も親指シフトを触ることはとても難しいから、
他配列のことは想像で語るしかない。
想像は簡単に間違う。
アメリカ人の友人がいない状況で、
鬼畜米英と言うようなものだ。
何故人は配列を変えないのだろう。
意識の高い人だけがいくつかの配列を試して、
そのうち夢のようなものがないからと、
ジム通いを辞めてしまう。
続ければいいのに。
DvorakJは、比較的簡単にキー配列を変更できるソフトだ。
マニュアルさえ全部読めれば、
いかようにでもキー配列を変更できるはずだ。
(微妙に手が届いていない部分もあるけど)
配列変更は宗旨変更に近くて、
思想転向に近い、
と、したことのない人は思っている。
単純に、
QwertyのFとAの交換をしてみ。
;と-の交換をしてみ。
道はひらける。
信者とは、
誰か他人に与えられたものを、
頑なに守る人のことをいう。
僕は、他人に与える人になるべきだと思う。
あたらしくものを作り、
それが改良になれば、
世の中は豊かになる。
全員が教祖になって、
鉛筆は使うけど削り方はみんな違っていて、
それでいて他人のそれを見れば、
なるほどねとニヤリとして、
削り方はこっちがいいんだぜ、見せてやるよ、
なんて世界になるのが、
僕は一番いいと思っている。
配列は、作者にとっては完成品だけど、
そうじゃない人、言葉の感覚や指の感覚が違う人にとっては、
どこか不満のたまるものにしかならない。
だから自由に自分なりにアレンジしていいと思うし、
そうすべきだと思う。
もちろん、
その配列が何を考え、どうやって配置したのかを、
理解した上でどうするべきかを決めればいいだけで。
親指シフトの信者が多いのは、
誰か偉い人のいうことを真に受けて思考停止して、
自分で考えることを放棄した人が多いからじゃないか。
そう煽ってみようか。
一方、ネットで「第三の選択肢親指シフト」
なんてやり方で意識高い系の人を騙そうとする輩も多い。
第三どころか、日本語配列は100はあるというのに。
その情報を開示しないのは、
程の悪い囲い込みだ。
ネットのない時代なら囲い込めたけど、今は情報は求めれば得られる。
もっとも、
鉛筆の削り方を研究して一生を終わり、
一文字も書かない人生なんて意味がない。
文字を書くことが主で、
配列のアレンジは従だ。
僕は道具がクソ過ぎると思ったので、
先に新しい道具にアレンジし直して、
そこから先行研究を体験し始めている。
親指シフトは悪くないけど、ベストではないと考えている。
たとえば今の感覚でいうと、
左人差し指ホームに「け」があるのはもったいない。
左薬指上段の「か」か、中指上段の「た」と交換した方がいいと思っている。
でもいいところはあるはずで、
それは何だろうと研究しているだけだ。
(ついでに新下駄も)
もっとみんな配列を語り、
そして色んな配列をやってみればいいのに。
新下駄や飛鳥は打てるまで時間がかかる(清濁別置)が、
薙刀式や月配列は簡単な方で、
行段系ローマ字はもっと簡単だと思う。
それぞれ数日、一週間、二週間みとけば、
適当には打てるようにはなる。
鍛えて極めるかどうかを判断するのはそのあとでいい。
試乗期間みたいなことだ。
他人の受け売りばっかやってないで、
自分で体験すれば、
その言葉に真実が宿ると思う。
2018年08月25日
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