以前書いたものの続き。
好きな場面を繋いで行こうとするから、
ストーリーにはならないのだよ。
二次創作とストーリーの関係を考えることで、
炙り出してみよう。
二次創作の伝統は、やおいである。
ヤマなし落ちなし意味なしという80年代からある自虐だ。
これがいつのまにかBLの隠語になった経緯はわからないが、
BLの二次創作が多かった事実はあると思う。
さて、二次創作のそもそもの動機は、
「そのキャラクターのそういう場面が見たい」
という欲望だと思う。
「そういう」は大抵エロ方面だったりするけど、
そうじゃない、真面目な本編補完や完全創作もあるだろう。
それらをひっくるめて、
「本編(公式)では見られないものを、
妄想によって補完する」のが二次創作の醍醐味だ。
しかしその動機は、
「新しいストーリーを見たい」ということから発していない。
「見たい場面」を見たらおしまいになってしまう。
つまり出オチだ。
複数の見たい場面があるとき、
それを時系列でつなぐと、
一見ストーリーになっているように見える。
しかし、それが因果関係になっていることはまれである。
見たい場面と、因果関係、どっちが優先?
と問えばわかる。
従属関係において、
見たい場面ありきで優先だ。
もし因果関係が優先であったら、
場面を変えてまで因果関係を維持するだろう。
そんなことは稀だろう。
因果関係の維持より、場面を優先で選ばれるはずだ。
だってそれを見たいというのが創作の動機だからだ。
で、見る側もそんなことは分かっているから、
「こういうキャラのこういう場面」
をリクエストして、それを得ることを目的としている。
つまり二次創作市場というのは極論すると、
場面違いキャラクター違いの組み合わせ商品の、
やり取りの場だ。
(ご丁寧にも、○×○、○○○と場面とムードをラベリングしてあったりする)
だからもちろん、そこにストーリーはない。
場面と場面の因果関係や、
ストーリー的な落ちや、
それがどういう意味があるかのテーマなどはない。
それありきだとすると、
場面が優先されないこともあり、
見たい場面が捨てられてしまうからだ。
だから極端にいうと、
二次創作にはストーリーがない。
(もちろんあるものもあるだろう。
統計的な数の問題を言っている)
だから意味もなく、落ちもなく、
だから山もないものが量産される。
二次創作にとって山とは「見たい場面」のことで、
因果関係の雌雄を決する最も危険な賭けをする場面ではない。
繰り返すが、僕は二次創作に明るいわけではないので、
数と印象の話をしているだけで、
ほんとうの二次創作がそうじゃなかったらごめんなさい。
もし見たい場面をどうやってつなごうか考えているのなら、
それは二次創作の手法に過ぎないことを理解しよう。
それではどうやったって、
ヤマなし落ちなし意味なしの、
「見たい場面の市場に提出する」ものにしかならない。
場面を変えてまで因果関係を重視したいのか、
因果関係を変えてまで場面を残したいのか、
自分に問うと分かる。
(「見たい場面」はエロだけじゃない。
アクションとか、ギャグとか、ほのぼのとか、
どんでん返しとか、伏線の回収とかも、
「見たい場面」だよ)
前者がストーリーを書くことで、
後者が二次創作をすることだ。
二次創作をすることを貶めているのではない。
好きにやるといい。
しかしそのやり方では、
プロの作るストーリーは作れないことを警告しているだけの話だ。
また二次創作の経験がなかったとしても、
つい思いついた場面を大事にするがあまり、
「これとこれの間をうまいストーリーでつなごう」
なんて考えてしまうこともあるだろう。
それはたいてい山なし落ちなし意味なしになるぜ、
という警告をしているだけのこと。
じゃあどうすればいいのか。
因果関係をつくっていけばいいだけのことだ。
Aがこう終わったから、それを受けてBがあり……
という連鎖を書いていけばいいだけのことである。
(書きたい場面Xにさりげなく誘導できないか、
と考える気持ちもわかる。
しかしたいていはご都合になってしまう。
テヅカチャートによる訓練をすると、
ご都合にならずにXに誘導できるようになるかもしれない)
ストーリーとは場面ではなく、因果関係の事である。
二次創作の市場は、
ストーリーの売り場ではなく、場面の見本市に過ぎない。
もちろん二次創作に対して極端な見方をしてはいることは重々承知。
でも、だから「薄い本」になるのだね。
そんなに分量が書けない。場面の羅列だから。
因果関係というストーリーは、厚い本にしかないのだ。
(短編を除く)
2018年08月28日
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