2018年08月31日

学園ものは共感しやすいが、感情移入するとは限らない

なぜ学園ものばかりみんな作りたがるのか。
先日のFランク企画も学園ものだった。
(ここにあげて晒し首にしたいが自重する)

共感を感情移入と勘違いしてやしないか。


ここの脚本論では、
共感と感情移入を区別していて、
それらが混同されていることに警鐘を鳴らしている。

どちらもゴールは同じだ。
主人公を我が事のように感じることだ。

プロセスが違う。

共感は、自分にもあったことで親しみを感じること。

感情移入は、自分にはないことなのに、
その立場になったらそういう気持ちもわかるわあと、
「自分にないものに自分と似た点を認めて親しみを感じること」だ。


共感はそのものずばり、自分にあったことだ。
あるあるネタがその代表だ。
誰もが体験したことを描いて、
最終ゴールを目指す。

感情移入は、自分にないことで可能になる。
私たちが外人の映画に感情移入できるのは、
それが人間に共通の何かを描いているからだ。
違う食べ物を食べ、違う言葉をしゃべり、
違うシチュエーションで日本ではあり得ないことに困っても、
人間共通の何かを持ってくることで、
「わかるよその気持ち。
僕は経験したことがないが、
そういう立場でそういうことが起これば、
誰もがそう思うよね」
と思って、
一体感を感じるのだ。

つまり、感情移入は共感よりも、
一段レベルが高くなければうまく書けない。



さて。

なぜ学園ものをついつい考えてしまうのか?

誰もが共通のことが多いジャンルだからだ。
各種イベントに事欠かないから、
それらを描くだけで、
あるあるを振りまける。

それで親しみを感じさせて、
主人公と観客の距離を詰めようという作戦である。

ところが、
共感していくルートで行くことになるから、
特別な、あり得ないシチュエーションを描くことが出来ない。

たとえば構内に殺人犯が紛れ込むとすると、
そんな経験をした人は少ないから、
共感ではなくなってしまう。

共感で書けるのは、
遅刻したとか、テストがあるとか、クラス替えとか、
転校生とか、グループの対立とか、
夏休みとか、恋とか、付き合う付き合わないとか、
学園祭とか体育会とか、先輩後輩とか、先生とか、親とか、
クリスマスとか大晦日とか初詣とかバレンタインだ。

「殺人犯が紛れ込む」ではない。
コロンバイン高校出身者とか池田小学校卒業者とかしか、
共感できない。


で。

だから学園ものは、
パターンが決まってしまっている。
でも共感要素があるから、
題材として扱いやすい。

要するに、レベルの低い人が扱いやすいジャンルなのだ。

感情移入をさせることが出来ず、
共感しか技がない人は、
共感のネタが多い手法を選ぶ。

それが学園ものというにすぎない。

つまり学園ものは、共感の最大公約数だからだ。


感情移入の技のあるレベルならば、
実は共感と感情移入を使い分けて組み合わせることが可能だ。

学園あるあるを見せておいて、
共感をさせておいて親しみを持たせ、
突然構内に殺人犯を出現させる。
その時の主人公の対応が、
「そういうシチュエーションになったら、
誰もがそうする」ということになったとき、
観客は感情移入を始める。

こうして、感情移入と共感を使い分けて、
ストーリーの奥底へ引きずりこむのである。

慣れてくると、
あるあるを学園もの以外からも持ってこれる。
それはどれだけ人間たちを観察しているかで決まるだろうね。

さらに、共感なしで感情移入だけで書いてみようと、
レベルアップしようとすると、
孤独な殺し屋の話とか、
自分に一切経験がないことを書こうとするはずだ。

で、感情移入を自在に使えるようになったら、
共感も小技として使って、
硬軟併せ持つようになっていくだろう。



学園ものを書く奴は、
つまりはレベルが低い。

共感を感情移入と勘違いして、
共感と感情移入を区別できず、
感情移入を使えず、
感情移入だけで進めることもできず、
感情移入と共感を使って揺さぶることもできない、
共感しか技のない奴だ。
で、ちゃんと探そうとせず最大公約数を持ってくる。

さらに、知ってるネタしか使わずにやっているから、
いつかネタが切れるのだ。


学園ものを書く奴は、
つまりはレベルが低い。

あるあるネタばかりで、
新規性がない平凡なものしかつくれない。

オリジナルで、特別な話など書けない。
posted by おおおかとしひこ at 22:47| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なぜ、最近は学園ものの映画が多いのか、とてもよく分かりました。猫も杓子も、流行りのタレントなのか、売り出したいタレントなのかを使った学園ものばかり。

今現在、山ほど学園ものが溢れているのに、それでもなお、次から次に作り続けている理由が、いまいち分かりませんでした。

しかも、相も変わらず、性懲りもなく、どこかで見たような内容ばかり。配役だけを変えて、導入から、中盤から、落ちまでストーリーは、どれも似たり寄ったり。

こんなの、いったい誰が見ているのか、不思議で仕方がありませんでした。予告編とかのアオリだけは凄いですが、恐らく、誰も見てない気がしていました。

以前から、なぜ、そういう現象が起きているのか、理解に苦しんでいたのですが、大岡さんに脚本の視点で説明して頂いたことで、ようやく理解できました。スッキリしました。ありがとうございました(笑)。
Posted by 虎次郎 at 2018年09月12日 15:00
虎次郎さんコメントありがとうございます。

学園ものは人数を出しやすいので、
売り出し中の子+新人何人かをまとめて出演させやすく、
事務所的には美味しいんですよね。
作り手側もまとめ買いということでギャラを交渉しやすいし。
キャストの所属事務所を調べると、裏側がわかりやすいかも知れません。

つまりは穴埋めコンテンツに便利なのですなあ。
地方と協力すれば宿代も浮くし。
あと中学生あたりがターゲットなので、
毎年毎年作っても客が回転するコンテンツではあります。

ビジネス上のWin-Winがあっても、
僕ら観客は嬉しくないという落ちは、ある。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年09月12日 17:08
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