前記事の薙刀式で面白い発見をしたので、
脚本論にも書いておく。
「千と千尋の神隠し」で、
なぜ千尋は「両親がここにはいない」と分かったのか?
それは、
「答えのないのが答え」というパターンが、
「物語的に面白い」からなのだ。
答えがあると思って、それを解くという、
子供の段階から、
答えや問題を作る側の、一段レベルの高い状態に行くことが、
成長を意味している、
ように見えるから、
物語の大きな枠組み、成長に合致するからである。
禅の公案のようなものである。
問題をただ解くことで集中していのが、
この問題自体に意味がないと気づくことで、
常住座臥の境地にたどり着くわけである。
「この繰り返しのループの外に出ることが、
一段階の成長になる」
というモチーフは、SFでもよく出てくる。
マトリックスもそうだし、
押井守は、
それを「ビューティフルドリーマー」「紅い眼鏡」
「アヴァロン」「スカイクロラ」などで、
延々同じことを描いている。
そもそも、
「千と千尋の神隠し」での、
「両親はどこにいる?」の問いは唐突すぎる。
宮崎が落ちが思いつかなかったから、
成長を示すような問答で誤魔化した、
というのが正解ではないか。
僕は、「千と千尋の神隠し」で、
宮崎駿という作家は終わったと感じた。
それ以降のハウルやポニョや風立ちぬは、
作品として成立していない。
その最後のエピソードが、この両親を見つける問答で、
なんでこれがあるのか、
ずっと意味がわかってなかったけど、
ある日、
「ああ、全体を統括して物語として一本化することを、
もう宮崎駿はできなくなったのだな」
ということに気づいて、
むしろ哀れになった記憶がある。
カリオストロやラピュタやナウシカの宮崎駿は死んだんだ、
と僕は思って切なくなった記憶を思い出す。
答えのないのが答え。
このどんでん返しにたどり着きたかったら、
最初に問いを出して、
最後に答えることで、
成長を示すべきだね。
そしてそれがたしかにこれまでの冒険の結果で自然に分かることで、
しかも答えがあると思い込んでいた狭い見識があったことを、
最初に示しておくべきだ。
それが物語にとって必要な構造で、
宮崎駿の、「コンテを最初から書いて行く」
という形式では後戻りして直せないから、
「千と千尋」ではその係り結びが描けなかったのだね。
ふつうは脚本のリライトで手を入れて行く部分だからね。
宮崎駿は、モチーフを描くのが得意な作家で、
テーマを描くのが下手な作家だ。
カリオストロ、ナウシカ、ラピュタくらいまでは、
きちんと出来ていたが、
それ以降崩れまくっている作家である。
人気があることと、出来ていることは別のことで、
もう形を保っていない境目が、
この千と千尋の問答であると僕は考えている。
2018年08月30日
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