2018年09月04日

シーンの頭は、全体の冒頭と似ている

最初の一行は、全部出来ていないと書けない、
なんてよく言われる。

実はシーンの冒頭、ブロックの冒頭も同じだと思う。
その塊で何をするか、
出来ていないと書けない。


たいていはコントラストを考える。

それが激しいなら静かにはじめる。
静かなものなら比較的激しいのから。
悲しみから始めて喜びへ。
喜びから始めてどん底へ。

だから、基本は「逆からはじめる」だ。

出口がわかっていれば、
逆から入って抜けるのが、一番起伏があるということになる。


だから、
「このシーンで何があるか分からないが、
前からの流れで書いていく」
のは間違いだ。

シーンの後半に起こることと前半のことが似ていたら、
それは平板な、詰まらないシーンになるからだ。

シーンの後半がよく書けたとしても、
前半から繋がってダラダラしていたら、
それはメリハリのない、ダメなシーンだ。

その後半が分かっていたら最初からこう書かなかったのに、
とあなたは後悔して、
もう一回書き直す羽目になる。

今度は違う入り口から入るはずで、
出口の逆のムードからはじめる。

後半が悲劇ならば前半は喜劇で、
後半がスピードがあるなら前半はわざとゆっくりに、
後半がロマンティックなら前半はギスギスに。


もちろん、A→Bという二つのコントラストを取らずに、
A→B→Aと山谷を作っても良いし、
A→B→Cと全然違う展開を持ってもいいし、
A→B→C→Aとループもスパイスかもしれない。

問題は、A→A→A…と同じことが続くことだ。


時間とは変化だ。
変化とは前と違うことをすることだ。
変化の面白さとは、
前とどんどん変わってくことである。


同じことを続けるのは、時間軸を持つものとして、
もっとも恥ずかしいことなのだ。


シーンの入り口と出口の関係は、
大きな全体の入り口つまり冒頭シーンと、
全体の出口つまりラストシーンの関係と、
ほとんど相似形になる。

マトリョーシカに例えられるけれど、
つまり我々が時間の娯楽をどう捉えているか、
という問題で、
「変化しないものがつまらない」が、
その本質ではないかと思う。


次のシーンはどうやってはじめる?
まずそのシーンの中心の出来事と、
次へどう続くになるのか分からないと、
呼び水としての冒頭を作れないよね。


まず書いて考えるのは最低だ。
無計画の挫折が待つだろう。
シーン単位でも、全体でも。

シーンをそのように書けないやつは、
全体もそのように書けない。
つまり挫折が待っているだろう。

挫折に悩む人は、
このようにシーンの結末ありきでシーンの冒頭を、
どうやったらベストに導入できるかを考えると、
短期的な訓練になる。

もっとも小さなシーンで出来るようになれば、
中規模のシークエンスでも出来るようになるし、
大ブロックでも出来るようになるし、
幕規模でも出来るようになるし、
一本の規模でも出来るようになるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。