最初の一行は、全部出来ていないと書けない、
なんてよく言われる。
実はシーンの冒頭、ブロックの冒頭も同じだと思う。
その塊で何をするか、
出来ていないと書けない。
たいていはコントラストを考える。
それが激しいなら静かにはじめる。
静かなものなら比較的激しいのから。
悲しみから始めて喜びへ。
喜びから始めてどん底へ。
だから、基本は「逆からはじめる」だ。
出口がわかっていれば、
逆から入って抜けるのが、一番起伏があるということになる。
だから、
「このシーンで何があるか分からないが、
前からの流れで書いていく」
のは間違いだ。
シーンの後半に起こることと前半のことが似ていたら、
それは平板な、詰まらないシーンになるからだ。
シーンの後半がよく書けたとしても、
前半から繋がってダラダラしていたら、
それはメリハリのない、ダメなシーンだ。
その後半が分かっていたら最初からこう書かなかったのに、
とあなたは後悔して、
もう一回書き直す羽目になる。
今度は違う入り口から入るはずで、
出口の逆のムードからはじめる。
後半が悲劇ならば前半は喜劇で、
後半がスピードがあるなら前半はわざとゆっくりに、
後半がロマンティックなら前半はギスギスに。
もちろん、A→Bという二つのコントラストを取らずに、
A→B→Aと山谷を作っても良いし、
A→B→Cと全然違う展開を持ってもいいし、
A→B→C→Aとループもスパイスかもしれない。
問題は、A→A→A…と同じことが続くことだ。
時間とは変化だ。
変化とは前と違うことをすることだ。
変化の面白さとは、
前とどんどん変わってくことである。
同じことを続けるのは、時間軸を持つものとして、
もっとも恥ずかしいことなのだ。
シーンの入り口と出口の関係は、
大きな全体の入り口つまり冒頭シーンと、
全体の出口つまりラストシーンの関係と、
ほとんど相似形になる。
マトリョーシカに例えられるけれど、
つまり我々が時間の娯楽をどう捉えているか、
という問題で、
「変化しないものがつまらない」が、
その本質ではないかと思う。
次のシーンはどうやってはじめる?
まずそのシーンの中心の出来事と、
次へどう続くになるのか分からないと、
呼び水としての冒頭を作れないよね。
まず書いて考えるのは最低だ。
無計画の挫折が待つだろう。
シーン単位でも、全体でも。
シーンをそのように書けないやつは、
全体もそのように書けない。
つまり挫折が待っているだろう。
挫折に悩む人は、
このようにシーンの結末ありきでシーンの冒頭を、
どうやったらベストに導入できるかを考えると、
短期的な訓練になる。
もっとも小さなシーンで出来るようになれば、
中規模のシークエンスでも出来るようになるし、
大ブロックでも出来るようになるし、
幕規模でも出来るようになるし、
一本の規模でも出来るようになるだろう。
2018年09月04日
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