2018年09月03日

小説と映画の違い: 映像化不可能な表現

「映像化不可能な」なんてのが枕詞につく小説が昔はあった。
しかしCGの発達によって、それはある程度覆されている。
CGのないころ、ジュラシックパークは不可能だった。
今や定番の一つでしかない。

ところで、このようなビジュアル上のことたけが映像化不可能か?
そうではない。


たとえば、小説ではごく普通の次のような文を考えよう。

彼は必死で立ち上がる。しかし錆びついた彼の体は言うことを聞かない。
廃公園で放置された遊具のように軋みをあげる。


適当に書いたので、
名文かどうかはこの際置いておく。
いわゆる比喩表現だけど、
これを映像で表現できる方法はない。


・カット割りで工夫する。
彼の立ち上がる足元、アオリの顔、
震える拳や膝、スローモーションなども効果的に使って、
立ち上がるアクションを一連の大げさなカット割にする。

・モンタージュ。
彼の立ち上がる様と、廃公園で軋む遊具をカットバック。
なんなら彼の動きに合わせて錆びた遊具の軋む音を入れる。

・モンタージュと比較。
動かない遊具の関節と、似た関節をカットバックする。
これで動かないことが伝わる。

・CGを使う。
彼の体の一部が遊具にモーフィングする。
動かないことを遊具と一体化した彼の姿で表現。

・説明台詞。
「俺の体はすっかり錆びて、まるで廃公園の遊具だぜ」
あまりよろしくない。

・俳優に任せた。
カット割りに頼らず、芝居一本。
しかし小説の文章をそのまま表現できる役者はいない。
精々、
「苦しそうだが、必死で立ち上がる」
ことしかできないだろう。


つまり、小説の文は映像化不可能だ。

映像はそのまま見たものしか写せない。
男が苦しそうに立ち上がることしか写せない。
だから廃公園の遊具なんて比喩をやっている余裕などない。

なぜ立ち上がったのか、
何をするつもりなのか、
そもそもなぜ体が動かなくて、
今動いたのはなぜか、
余程の理由があるからだろう、
それは何か、何をしようとしているのか、
という「文脈」が、
映画にとっての全てだ。

だから、
「彼は必死で立ち上がる。○○の為に」
が映画で重要な部分である。
ト書きには「○○の為に」は書けない
(しかしストーリーを理解しているならわかる)から、
結局ト書きに描かれるのは、
「彼は必死で立ち上がる」だけである。

原作をある程度尊重したって、
「彼は全身の錆が軋むように、必死で立ち上がる」
くらいを書くレベルだ。
(しかし錆も軋みも、肉体の表現では不可能だね)


つまり、
小説の比喩というのは、
目の前で起こっている出来事を、
目の前にないイメージでたとえることが、
華なのだ。

ただ立ち上がる動作に、
錆やら廃公園の遊具を持ってくることが、
小説を書くということと言っても過言ではない。
言葉を見たままに使わず、
別の言葉で別のことを言うのが、
言葉による優れた表現なのだ。


だからビジュアル的に全然違うものを持ってくるのが、
小説的表現(のひとつ)だと言っても良い。

しかし映画は、
立ち上がる人を撮影するだけなので、
ビジュアルのたとえとかはどうでもよく、
その目的や動機や、その結果を焦点にする。


両者は、
同じ現象を違うメディアに置き換えている。
共通するのは、
彼の目的と必死に立ち上がる部分だけだ。

これを「実写化」というべきかどうかなんだよね。


小説はそもそも実写化不可能だ。
実写できないような想像の世界を、
言葉で与えるのが小説だ。

小説の実写化なんて、原理的に無理なんだよ。


にも関わらず、小説を実写化しては爆死する。
バカの集いだ。



同様に、漫画的誇張表現を、
ただCGやヘンテコ衣装に置き換えては爆死する人たちもいる。

誰も映画の本質を、理解してないんだね。

目的、動機、結果が面白いのが映画。
公園の遊具は無視しても、面白くなければならない。




(追記。たとえば、

全然体が言うことを聞かない。廃公園の遊具みたいに、
すっかり錆びついてしまったみたいだ。
ぎぎぎ。俺は必死で立ち上がる。
ぎぎぎぎぎ。ついに俺は錆を断ち切った。

みたいに、一人称ならさらに小説と相性がいいかもだ。
立ち上がる表現を「錆を断ち切った」などのように、
たとえ話で進められらのも小説表現のひとつで、
これは映像化は全く不可能な領域だ)
posted by おおおかとしひこ at 13:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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