2018年09月05日

面白いストーリーと、面白くないストーリーの差はなにか

聞いたことがあり、その先に興味が持てないのが面白くないストーリー。
聞いたことがない、あるいは多少聞いたことがあっても、
その先に興味が持てるのが、
面白いストーリー。


ストーリーは、
状況や事件、
それをどうやって解決するかという展開、
それがどうやって最終的に解決するかと、
全体でどういう意味があったのか、という結論、
の骨の部分と、
魅力的な人物や舞台設定や、シーンのビジュアルなどの内臓や皮の部分がある。

それをどう組み合わせて、
一本の矛盾なきものに仕立てるかが、
ストーリーテラーの腕の見せ所だ。
もっとも、
矛盾していたり、無理があったり、おかしくなっているのは、
ストーリーとしてできていないわけで、
それはもはや評価の対象外である。

で、できているストーリーだとしても、
面白いのと面白くないのがあって、
その差は何だろうかと考えると、
興ざめになるのが面白くないもので、
興味がずっと持続するのが面白いストーリーということになると思う。

それは結果から見たものに過ぎないので、
もう少しそこを掘っていく。

観客の経験によって、
興ざめするかしないかが変わってくると思う。

一度見たことのあるパターンをパクっていたら、
興ざめになるのは当たり前だ。
しかし、それを経験していない観客なら、
初めてのパターンだからすげえってなるかもしれない。
(たとえば、
「カメラを止めるな!」は、
「運命じゃない人」や「ラジオの時間」を見ていない人には、
新しいパターンに見えるかもしれない。
僕には同じことの焼き直しにしか見えなくて、
実に興ざめであった。
無知のほうが楽しめるに過ぎない)

だから子供向けは、パターンを流用してもよいだろう。
初心者向けは、いつの時代にもあるべきだ。

問題は、大人向けのものである。


大人は既に経験してきたことが多く、
それをもとに過去と比較して、
興が覚めるかどうかを判断する。
あれのあれのほうが良かった、と考える。
(もちろん比較しないで、
これはこれで良い、という思考停止はあり得る。
好きな芸能人が出ているのを見て、
思考停止しいるバカな女とかはそうだね)

だから、あれのあれのほうが良かったと思わせないものは、
これまでに似たパターンをつくらないことで成立する。
そうすれば予想がつかなくなる。
どうやって解決するのか、
結末はどうなるのか、
全体でどういう意味のことを言おうとしているのか、
予想が立たなくなる。

これが面白さに直結する。

その後、結末を見て満足すれば、
「確かに面白かった」と評価が確定するし、
結末でこけたら「途中までは良かったが」と、
結局は面白くなかったという判断が下されるだろう。


つまり面白さとは、
興味を引き、
興ざめせずに夢中になり、
何にも似ていないことで予想をさせず、
結末の意味に満足させるもの、
という定義が可能だ。

もちろん、
なにかに似ていると、
予想のつかない不安を、
不安過ぎないようにコントロールできるかもしれない。
(どうせこうなるんだろう?とかいうのは、
不安を安心でなだめたい時に言うのだ。
安心して楽しみたい、不安になりたくない、
という気持も、人にはある)

だから、なにかに似ていながら、
かつ予想もつかないのが理想の面白さだ。
そんなにうまくいくかどうかは分からない。
しかし、そのバランスは、つねに考えていないといけないことではある。

で。

それが骨の部分の面白さで、
キャラクターや舞台やビジュアルの面白さが、
ガワの部分の面白さだ。

つまり一言で面白いと言っても、
ストーリーそのものが面白い場合と、
ガワが面白いという場合は、
つねに分けて考えるべきであり、
あなたの提供するものは、
両者であるべきなのである。

僕がここで主に書いているのは、
大体は骨の部分のことだ。
それが出来ていないものがあまりに多く、
それじゃいかんという使命感で書いていることもある。
(現状の嘆きも入っているが)

しかし、骨格標本だけで面白いわけではない。
表面上の面白さは、あったにこしたことはない。

つまり、
面白いといっても、
なかなかに一言では言い表せないややこしい要素が入り組んでいるということが、
「面白いって何?」という問いへの答えの困難さに直結している事になる。


結論でいうと、
全ての要素が面白くなければならない。
骨もガワもだ。
ガワだけ面白いのは中身がない。
中身が面白くてもガワがしわしわなのは、無味乾燥だ。

しかも、出来ていないものはストーリーですらない。

これは、相当に難しい偉業を成し遂げなければいけない、
ということを意味している。

全て面白くしなさい、面白くない要素は、
全て面白くするべきである、
なんて当たり前の結論になっていくからだ。
しかも、面白さは、
別々の方向を向いていてはだめで、
ひとつの方向にそろって、一つの世界をつくらなくてはならない。
バラバラのつぎはぎは、
世界を形成しない。

さあ、どうやってやればいいのか、
見当もつかなくなってきたね。

でもパーツはひとつひとつあるわけだから、
それを面白くするしかないわけだ。
しかもそれらの有機的関係や変化も面白くしなければいけないわけだ。
とても難しい。
だから偉業なのである。

しかも、そういう名作っぽい詐欺すら横行する。
ファイアパンチのような、
「読み取れなかった自分が悪いのだろうか」
なんて不安にさせる、名作のふりをしたうんこも沢山ある。


初心者が見ても面白く。
大人が見ても面白く。
何にも似てなくて予想がつかず、
しかし何かには似ているので、不安に陥ることはないこと。
この組み合わせの中で、
新しい結論にたどり着くこと。

これが面白いストーリーに課せられた条件である。
超ムズイじゃん。

だからみんな怖くなって、
安易に別の何かを転送して儲けることしか、
やらなくなってしまったのだろう。


いま、まったくオリジナルで面白いものをつくっているのは、
どこだろうか。
そこへ行くこと自体が、
あなたの面白いへの感度を上げるかもしれない。

少なくともシネコンにその答えはない。
過去の名作はいくらでも学ぶべきだ。
それを超えるために。

つまりあなたは、
次の面白さを、創作しなければならないのだ。



なにか面白いことは、日々どこかに落ちている。
それがストーリー的面白さになるかどうかは、
あなたがそれから線を出していけるかによるかもしれない。
線の面白さとは、
「点の面白さから始まって、
次何処へ行くんだろう」という興味のことだ。
多分ここだろう、という予測を持ちながら興味を持つことで、
何処へ行ってもいいや、と興ざめされないもので、
終着点についたらなるほど意味があった、
となることの面白さだ。

そのように点から発想することは、
中々に難しい。
しかし、やるしかないということが、本当のところだね。
線の面白さになるまで、点を集めて練っていくしかないかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 10:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。